『時計塔秘録』

 ルーンミッドガルツ王国の伯爵家の三男として生まれた彼は、北方の同盟国家シュバルツバルド共和国の男爵家へと婿入りした。三男坊とひとり娘の婚姻――それはあからさまな政略結婚だったし、当然のごとく愛などというものはなかった。
 子を成したのも、夫婦としての義務を果たした結果にすぎなかった。男爵は妻とそっくりな独占欲を示す息子を嫌悪した。
 男爵はなにかと理由をつけては息子と妻に近寄らず、休日のほとんどを庭園の東屋で読書をして過ごしていた。

 少年との出会いは、そんなある日のことだった。
 その日、男爵はいつものように東屋で本を読んでいたが、穏やかな陽気に誘われてつい寝入ってしまった。寒気にぶるっと身を震わせて目を覚ますと、外はどしゃ降りの雨。
「しまったな……」
 と後悔するも遅く、しばらく待てばだれかが気が付いて来てくれるだろうと男爵は待つことにする――が、待てども待てども、だれもこない。諦めて濡れて帰ろうと立ち上がったとき、傘を差して少年がやってきたのだった。
「男爵さま……よかった、ここにいらしたのですね」
 その少年は執事の孫だった。先代から男爵家に仕えている執事にはひとり息子がいたのだが、先だって妻ともども病死してしまい、のこされた少年は祖父である執事に引き取られたのだという。
 男爵と少年はひとつの傘に身を寄せて歩く。邸へともどる道すがら、さまざまな話題に興じた。明朗快活で知性に溢れた少年と会話を、男爵はこのまま邸に着かなければよいのに、と惜しむほどに楽しんだ。
 少年はふいに申し訳なさそうな顔をする。ふたりで入るには少年の傘が小さすぎて、男爵の肩が濡れているのに気がついたからだった。
「すいません、ぼく、考えが足らなくて……」
 傘をひとつしか持ってこなかった自分を責める少年。男爵は首を横にふる。
「気にするな。大きな傘だったら、こうしておまえを堂々と抱き寄せることができなかったからな」
 少年のたおやかな腰を抱き寄せ、男爵は微笑んだ。

 あの雨の日以来、男爵と少年は逢瀬を重ねた。男爵がじつの息子よりも執事の孫を寵愛していることは衆目にも明らかだった。
 少年の十三の誕生日、男爵は傘を贈った。柄に男爵家の家紋でもある梟をあしらった上等な傘だ。
「おまえも大きくなったから、傘もすこし大きくしないとな」
 それはつまり、これからもつづいていく関係を示した言葉――このことが男爵夫人の耳に入ってしまったのが、悲劇のはじまりだった。

 当時、アルデバランに建設中だった時計塔。正式名称はキナセ・ブルガリノ時計塔で、その建造は生ける伝説と呼ばれる三人の錬金術師と地上楽園建設推進委員会略――俗称「地楽委」によって取り仕切られている。
 この大事業には特権階級からも多くの出資がなされており、男爵家も表向きは出資をしていたが、実際に資金をだしたのはプロンテラの伯爵家だった。異国の男爵家との婚姻も、地楽委とのパイプを得るための手段だった。
 男爵自身は、この計画になんの意味も浪漫も感じていなかった。

 ――その日、少年が消えた。その翌日、執事が消えた。
 さらに三日後、ふたりの私室で男爵は折れた傘を見つける。それは彼が少年に贈った傘だった。
 男爵はすぐにそれが妻の仕業だと直感する。問い詰めた男爵に彼女はせせら笑った。
「錬金術師さまが実験材料をさがしてらしたので、差し上げただけですわ。あんな愚図でも偉業のお役に立つんですから、過ぎた光栄というもの――」
 すべての言葉を聞き終わるまえに、男爵は妻を殴り倒していた。張り倒された妻が階段を転げ落ちる。妻はぴくりとも動かなかったが、なんの痛痒も感じなかった。
 男爵は折れた傘を握りしめ、時計塔へと走った。

 時計塔内部で男爵を待っていたのは、変わり果てた少年だった。
 偉大なる錬金術師がとうとうと説明する。
「階層連動ワープシステムの技術を特定の対象に転用することで、対象Aと対象Bを融合させることに成功したのだ。この技術によって無機物の硬さと不変さと、生命体の知性を兼ね備えた究極の番人を創りだしたのだよ、我々は」
 錬金術師の言葉など、男爵の耳には届かなかった。人とも物ともつかない異形を凝視して、呼吸すら忘れかけていた。
 “それ”は一抱えでは足りないほど大きな時計――ただし、人間の手足がにょっきりと生えた時計だった。手足はありえないほどに太く、鳩時計ならば鳩が飛びだしてくるだろう場所にはひとの顔が――少年の顔があった。
 錬金術師の得意げな声が遠くに聞こえる。
「いやはや、少年の感受性とは素晴らしいものだ。やはり大人、まして老人を素材にするのとでは完成度が違うな――手足など、薬でいくらでも太くできるのだしな」
「……意識はあるのか?」
 男爵はようやく声を絞りだす。
「は――?」
「だから、少年の意識は残っているのかと聞いているんだ」
 発火しそうな怒気をどうにか堪える。
 錬金術師は男爵のそんな様子にすら気づかない。あからさまに憮然とした口調になるのは、自慢を無視されたからだろうか。
「さあ、どうだろうな? 侵入者を攻撃するための理性や判断力は残っているが、それ以外のことは知らんな。確かめる必要もない」
「――そうか」
 男爵の目は異形を見つめたまま動かない。少年の目もまた男爵を見下ろしているが、どこまでも虚ろ――そこに一切の感情も記憶も見いだすことはできなかった。
 男爵はある決意とともに錬金術師に命じる。
「おい――出資者として命令だ。わたしもこの塔の番人にしろ」
 横柄な言われ方に錬金術師は、ふんと鼻をならす。
「我々としてはべつに構わんのだが、あとで問題にされるのは敵わんでな」
「それなら問題ない。いまさっき妻を殺してきた。わたしは一介の犯罪者だ」
 さらりと告げる口調に真実味をおぼえ、錬金術師は気圧されて黙る。
「――ま、まあいい。どうせ、おまえでふたり目だ」
 錬金術師のちらりと見たさきを目で追って――伯爵はふたたび絶句する。
 そこにもまた異形がいた。置時計に張り付いた顔は、執事の顔だった。
「男爵さまと同様、被験体に志願してくれたのだが、やはり老人は駄目だな。闘争本能が薄すぎて、もうひとつ使い物にならん」
 錬金術師の言葉は、男爵の耳元を通り過ぎていく。
「そうか……おまえにはすまないことをした」
 目に入れても痛くない孫をこのような形で失った老人の心はいかばかりだったか――男爵は痛心に首を垂れる。
 錬金術師の意識はもう、男爵をどんなふうに改造するかの想像で満たされている。
「ふむ、そうだな――時計塔の動力と連動したものばかりでは、少々心許ないところ。男爵さまには時計以外のものと融合していだくとしようか」
「ならば梟にしてくれ」
 それは男爵家の家紋だからではない。握りしめる傘の――少年と初めて言葉を交わした日の想い出だから。
「梟ね、まあいいだろう」
 動物と人間を融合させるとどうなるのだろうか――未知なる試行に、錬金術師は胸を躍らせる。
「ああ――それからもうひとつ」
 男爵は少年だった異形を見つめる。
「この……化け物に仮面を付けてやってはもらえないか? ――頼む」
 低頭する男爵に、錬金術師は鷹揚に頷いてみせる。
「ありがとう、感謝する」
 男爵は、少年をこのような姿に変えた錬金術師をいますぐにでも殺したかった。だがそれで少年がもとの姿に戻りはしないことも理解していた。だから男爵は、自らもまた異形となって少年を監視しつづける道を選んだのだった。
 ――いつか、少年の意識が取り戻されてしまうようなことがあれば、少年が
自らの醜き姿に気がつくまえに命を断ってやれるように、と。

 折れた傘はもう開かない。
 雨が、男爵を責めつづける。いつまでも、いつまでも――。



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