くろすけの鳴く頃に 〜ととろ殺し編

 塚森村には古くから、トトロ伝承と生贄の風習がある。
 十年に一度、トトロの棲むといわれている禁忌の森に「トトロの巫女」と呼ばれる女児を送る。巫女はトトロの祭壇と呼ばれる横穴に入れられる。それを見届けた村人は森を出て、十日十夜、森を監視する。巫女が森から逃げ出さないように見張るため、だ。
 この儀式は「トトロ様の怒りを鎮め、塚森村の安泰を約束してもらう儀式」と言われている。トトロさまに巫女を捧げているから、塚森村は今日まで保たれてきた――と村人たちは信じている。
 トトロの巫女は代々、草壁家の女児が当てられてきた。一族の幼い娘を犠牲にするからこそ、草壁は「トトロさまの祭司」として村での地位を確約されていた。
 生贄になることがあらかじめ定められて生まれてきた女児は代々、「サツキ」と名づけられてきた。だが、ごくまれに巫女となるべき女児が双子で生まれてくることがある。そのときは、どちらかが「サツキ」と名づけられ、残るもう一方は「メイ」と名づけられていた。
 何ごとも起きなければサツキが巫女となり、もしもサツキに何かがあった場合は、メイが巫女となる。メイはサツキの代役なのだ。

 トトロ伝承は江戸前期、もしくは戦国後期の頃から伝わっていると考えられている。巫女の儀式は江戸中期頃から始まったとされている。少なくとも、明治初期にはその儀式が行われていたとの記録が、草壁家に残されている。

 太平洋戦争が始まり、草壁家の男子が軒並み戦死したことと、戦中戦後の混乱によって、脈々と執り行われてきた儀式は一時途絶えることになる。
 しかし、戦後の荒廃した都会から安住できる場所を求めて塚森村に戻ってきた血縁者が本家を踏襲し、儀式を再会させる。この、本家を襲名した者こそが、草壁タツオの父・草壁卯之助であった。
 卯之助にはふたりの子供がいた。姉のサツキと、弟のタツオである。当時まだ幼かった姉弟は仲がよく、卯之助が危惧して何度も引き離そうとしたほどだった。
 果たしてこの危惧は現実となる。
 姉を儀式の巫女として失ったことで、タツオは嘆き悲しみ、儀式を――ひいては悪習を繰り返す草壁家と塚森村を憎むようになる。それが尾を引き、やがてタツオは村を出奔するのだった。

 1958年、昭和三十三年。
 考古学者となったタツオは、飛び出して以来ずっと戻っていなかった塚森村へ向かう。学者としてトトロ伝承を調べるためでもあり、いまだ生贄の儀式がつづいているのかを確かめるためでもあった。
 タツオが村を出た当時、草壁卯之助の子供はタツオひとりだけだったが、タツオは父が当然、新しい子供を儲けるなり、どこからか養子を引き取ってくるなりしているものと思っていた。
 しかし、素性を偽って写真家として村に入ったタツオは、草壁家が断絶していることを知る。タツオが出ていった直後、卯之助はまるで魂が抜け落ちたかのように気力を失くし、まるでロウソクの火がふっと消えるみたいに、ぽっくり逝ってしまったのだという。
 草壁家はそれでまた血筋が絶えてしまったが、儀式が廃れたわけではなかった。
 卯之助の葬儀が行われた日の夜、集まった村の年寄り連中で話しあいが行われて、ある取り決めがなされたのである。その取り決めとは、「これからは、村に住む家で持ちまわりに巫女を出そう」という内容だった。
 もちろん、反対の声も最初は多かった。いくら自分たちが生まれる前からつづいていた儀式だとはいえ、自分たちの身内から生贄を出すことは嫌だった。嫌な役目を草壁家が引き受けてくれているからこそ、これまで何百年もの間、儀式が絶えることはなかったのだ。
 ならば、これを機会に儀式を止めてしまえばいい――その意見を、誰もが心に思いながら、しかし、口に出すことができなかった。
 もしも誰かがそれを口にしたならば、みながみな、その意見に不承不承という顔をしながら頷いたことだろう。しかし、そうはならなかった。
 みんな恐ろしかったのだ。儀式を止めてしまうことが。
 長く苦しかった戦争も終わり、戦争の爪痕とともに古きものがつぎつぎと一掃されていく科学万能の時代に、「トトロさま」なる妖怪の存在を心の底から信じている者は少ない。
 戦争前から生きている年寄り連中にしたって、心底信じている者はほとんどいなかった。
 しかし、村が今日まで恙無くつづいてきたのだ。それはもしかしたら、トトロ様に生贄を捧げてきたお陰なのかもしれない。そうでなかったとしても、生贄を捧げてきたことで不利益を被ってはこなかったということになる。
 儀式を止めたらトトロ様の怒りを買うかもしれないが、儀式をつづけていれば現状は維持される。
 また、誰も「儀式を止めよう」と言い出さなかったことも、消極的にその意見を後押ししていた。
 誰も止めようと言い出さないということは、みんなトトロを信じているのかもしれない。みんなが信じているくらいなのだから、もしかしたらトトロはいるのかもしれない。いないかもしれないけれど、いたら大変だ。じゃあ儀式を止めることはできない。少なくとも、自分が止めようと言い出して後で問題が起きたら大変だ。
 ――そんな心理が連鎖的に働いて、話しあいの場に居合わせた年寄り連中の意見を現状維持に誘導したのだった。

 こうして、新しい儀式のシステムが生み出される。
 村の各家が十年交代で生贄を出すことに決まったのだ。どの家が受け持つかはあらかじめ決められて、受け持ちの年にはかならず女児を一名出さなければならない。女児がいなければ産まなければならない――という掟が定められた。この掟を破った家は村を追放される、という罰則も同時に定められた。
 厳しい掟を科せられる代わりに、受け持ちの家はつぎの受け持ちに役目を引き継ぐまでの間、「草壁家」と呼ばれて、かつての草壁家が受けていた恩恵を受けるのだ。

 写真家と身分を偽って戻ってきたタツオは、これらの詳細な内部事情まで聞き出せたわけではなかった。
 タツオが聞き知ったのは、生家である草壁家が途絶えて、いまは違う家が草壁家と呼ばれていること。そしてその新しい草壁家には十歳になる「サツキ」と「メイ」の双子がいること、だ。
 タツオはそこまで聞き出したとき、そのふたりの子供を助けることこそが、姉をむざむざ死なせてしまった自分の贖罪なのだ、と確信する。

 タツオはサツキとメイを助ける手立てを考える。攫って逃げてしまおうかとも考えたのだが、儀式はもう数日後に控えていて、ふたりには大人たちが常に目を光らせている。手を出すことはおろか、余所者である自分が近づくことすら許されないような雰囲気だった。
 無理に近づこうものなら、村から追い出されかねない。どうにかして方法を考えなければ……と思っているところに、ひとりの少年が近づいてくる。少年は表向き、余所者の写真家に興味を持った好奇心旺盛な少年を装っていたが、タツオに近づいた本当の目的は別にあった。
「あんた、本当は学者先生なんだろ。大人たちはみんな言ってるぜ」
 村の大人衆は、タツオが写真家だということを最初から大して信じていなかった。村に伝わるトトロ伝承と儀式のことをどこからか知って調べにきた学者、もしくは村から逃げたタツオが雇った探偵か何かだろうとも予想していた。
「だから、おれがあんたに協力する。その代わり、おれに協力してくれ。サツキを助け出してくれ」
 そう言った少年は、勘太と名乗った。
 勘太は、大人たちの話を盗み聞きすることで、草壁のことや儀式のこと、そしてサツキとメイの姉妹が生贄であることを知ってしまっていた。
 勘太はサツキに好意を抱いていた。だから、救い出したかった。そこにやってきたのが、部外者であるタツオだった。勘太はタツオに、「自分がサツキをどうにかして連れ出すから、おまえはサツキを連れて村の外に逃げて欲しい」と頼む。それを聞いたタツオは、自分も最初からそのつもりだと告げ、ふたりは互いに仲間であることを確認する。

 ふたりは自分たちの計画が気取られないように細心の注意を払いながらチャンスを待った。
 そして儀式の当日。タツオは騒がしさに紛れて森に忍び込み、村人がサツキをトトロの祭壇に置いていくのを待つ。村人が森から出ていったのを見計らって、タツオはサツキの前に姿を現す。
「あなたがトトロさま?」
 タツオの姿を見たサツキは、意外そうな顔をしてそう言った。タツオは苦笑したが、それを否定しなかった。見知らぬ部外者というより、トトロ、もしくはトトロの使いという体裁にしておいたほうがいいと考えたのだ。
 タツオはサツキを連れて森を脱出する。森を見張っている男衆は、あらかじめ計画していた手筈どおり、勘太の起こした小火騒ぎで持ち場を離れていた。
 小火を起こした勘太もまた、自分で起こしたその騒ぎに乗じてメイを連れ出し、逃げる予定だった。しかし、メイを連れ出そうとしたところを見つかってしまう。勘太は走って逃げようとするのだが、わけのわからないメイは両親から怒られることを怖がって逃げるのを拒む。仕方なしに、勘太はひとりで逃げる。

 小火だったはずの火は、儀式のために用意されていた藁製のトトロ人形に燃え移って火事になっていた。混乱の最中、勘太とタツオは予定していた村外れで合流する。そのまま逃げようとしたのだが、サツキが拒んだ。
「どうして、勘太とトトロさまが知り合いなの? あの煙はなに? あの子は……メイはどうしたの!?」
 その問いに、勘太は苛立った声で答える。
「大丈夫だ、火事はじきに消される。メイも無事だ。そんなことより、いまのうちに逃げないと連れ戻されちまうんだぞ!」
「逃げられるわけないじゃない! わたしはトトロさまの巫女なんだよ!?」
 声を荒げるサツキにつられて、勘太も大声で言い返す。
「だからどうした! トトロなんているわけねーだろ! そんな、いもしないオバケのせいで、どうしてサツキが死ななきゃなんねーんだよ! あるわけないだろ、そんな理由が! ないだろ、どこにも!!」
「……あるよ」
 静かな反論に、勘太は息を飲む。サツキは涙を堪えるように両拳を震わせながらつづける。
「わたしがこのまま逃げたら、メイが巫女になっちゃう。あの子、泣き虫だから、森の中で死ぬまでずっとひとりでいるなんて、絶対に我慢できないよ。きっと泣いて、村に戻ってこようとするんだよ。だけど大人のひとに捕まって、また森に戻されちゃうんだ。けど、あの子は馬鹿だから、また村に戻ってこようとしちゃうんだ。助けてよ、パパ、ママ……って泣きじゃくりながら。また連れ戻されても、ずっと何度も何度も、泣けなくなるくらい疲れるまでずっとずっと……!」
 いつの間にか、サツキの両目からは涙が流れ出していた。勘太の目にも大粒の涙が浮かんでいた。ふたりのやり取りを見守っていたタツオの目も潤んでいた。
 タツオは姉のことを思い出していた。この娘と同じ「サツキ」という名前を与えられた姉。生贄となるためだけに、大事に大事に育てられてきた姉。大好きだった姉。姉には自分の代役である「メイ」はいなかったけれど、きっと理解していたのだろう。もしも自分が逃げ出してしまったならば、他の誰かが自分の代わりに「サツキ」にされる――と。

 タツオは大いなる後悔とともに、ようやく、やっと、自分がどこまでも愚かな勘違いをしていたことに気づかされていた。
 姉の死を止められなかった贖罪は、「今年のサツキを逃がすこと」などではなかったのだ。
 もしかりに、目の前で泣いている娘を無理やり連れて逃げたならば、この娘の言うとおり、メイが巫女としてトトロへの捧げものにされるだろう。メイが逃げれば、また別の誰かが巫女にされることだろう。
 駄目なのだ、これでは。駄目なのだ、巫女を連れて逃げるなどという消極的なやり方では。
「ぼくがやらなくちゃならなかったのは――姉さんを黙って死なせたことへの償いは、きみを連れて逃げることじゃない。きみが逃げなくてもいい、きみがいつか歳を取って大勢の家族に看取られながら穏やかな死を迎えるその日まで、堂々と胸を張って暮らしていけるようにすることだったんだ。ぼくがなすべきは、儀式なんて、生贄を捧げる必要をなくすことだったんだ。そうだ……ぼくがなすべきは、トトロを殺すことだったんだ!!」
 激しい後悔が慟哭となってタツオの胸を抉るなか、サツキは勘太の腕を振り払って、村へと向かう道を駆け戻っていた。勘太は悲痛な声を上げながらその後を追いかけていく。
 タツオには追いかけることができなかった。追いかけて連れ戻したところで、サツキは絶対に村を離れようとするまい。自分の代わりに誰かが犠牲になることを、絶対に認めようとはするまい。その覚悟を秘めた瞳に見据えられる勇気が、タツオにはなかった。姉と同じ名前の少女に、安易で薄っぺらで自分勝手な贖罪を求めた自分の姿を見られたくはなかった。
 どれくらい佇んでいたのか。村から上がっていた黒煙はいつの間にか消えていた。勘太とサツキが戻ってくる気配もない。遠目に見る村はタツオを拒絶するかのように静かだった。この瞬間、タツオは自分がふたたび、塚森村にとっての部外者になったのだということを直感したのだった。
「ぼくが部外者? ……いいや、違う。ぼくは当事者だ!」
 タツオは駆け出した。ついさっき、サツキを連れて逃げてきた道を逆方向に。

 夜が白む頃、トトロが住まうとされる禁忌の森には大勢の足音と怒声が飛び交っていた。
「おい、どこへいった!?」
「いたぞ、そっちだ!」
 大勢の村人が、ひとりの招かれざる客を追いかけていた。闖入者の正体はタツオだ。
 彼はいま、トトロの祭壇を目指して木々を掻き分けていた。繁茂した枝葉はそれだけで凶器になる。タツオの頬も剥き出しの腕や手の甲も、肌の見えているところは全身どこもかしこも擦り傷だらけになっていた。なかには、肉を抉り取られて半分乾いた血をジャムのようにこびりつかせている傷もある。
 だが、いまのタツオは、傷の痛みなど微塵も感じていなかった。いまのタツオにあるのは、「トトロを殺す」という一念のみだ。
 その目的を果たすためならば、全身の筋肉が千切れ、全身の骨が砕けても構わないという覚悟があった。その目的を果たした後ならば、村人たちに殺されても構わないという覚悟があった。そして事実、タツオの全身は少しでも脚を緩めればそのまま崩れ落ちてしまうだろうところまで疲弊しきっていたし、背後からは村の男衆たちの怒号がしだいに近づいてきていた。
 朝焼けの白い光が、鬱蒼と茂る枝葉をすり抜けて森を薄っすら照らし始める頃、タツオはやっと祭壇――ぽっかりと口を開けた横穴の前にたどり着く。横穴の奥にはトトロがいるはずだ。
 タツオは躊躇することなく、坑内に飛び込んだ。
 横穴の中には明りも何もない。真暗ななかを、ライターの明りを頼りに手探りで奥へと進んでいく。疲労の溜まった身体に、暗闇を歩くという行為は思った以上に応えた。しかし、横穴はそれほど深くなくて、タツオはほどなく最奥にたどり着く。
「おじさん、どうしてここに?」
 ライターの明りに照らされたサツキが、驚きの顔を浮かべていた。
「きみはずっとここにいたのかい?」
「ええ、そうよ。ここでトトロさまがいらっしゃられるのを待つの。それが巫女の役目だもの」
「つまり、ここにトトロがくるんだな」
「言い伝えによれば、ね。でも、おじさん、そんなこと聞いてどうするつもり? ……っていうか、どうしてここにいるの?」
 サツキはいちばん重要なことに気づいて表情を険しくさせる。その質問には答えず、タツオは独り言のように呟いた。
「殺しにきたんだ」
「え?」
 サツキが聞き返すと、タツオの顔に凄絶な笑みが浮かんだ。
「殺しにきたんだ、トトロを。トトロを殺して、姉さんの仇を討つんだ」
 焦点のあわない瞳で虚空を睨むタツオの様子に、サツキは溜息混じりに頭を振る。
「無駄よ。トトロなんているわけないじゃない。どうせわたしは、ここで飢え死にして腐って干乾びるのよ」
 その言葉もまた独り言だったが、タツオは視線をサツキに向けて、静かに口を開いた。
「もしそうだとしたら、骨はどこだ?」
「え?」
「ここで死んだ巫女の骨はどこだと言ったんだ。骨は十年や二十年じゃ腐らないよ」
「あ……」
 サツキは驚いた顔をしたが、すぐにまた眉を下げる。
「……きっと動物が入り込むのよ。ここで死んだ巫女の死体は、動物に食い荒らされて、肉を骨ごと巣穴まで持ち帰られるのよ。だからここには、何の痕跡も残らないんだわ」
 その説明に、タツオも頷かざるを得なかった。少なくとも、トトロなる化け物がいるというよりはよっぽど納得のいく説明だった。
「もしそうだとしたら、ぼくは何を殺せばいいんだ……?」
 そう思った途端、タツオの肩に疲労が重く圧し掛かってくる。意識が霞んで、このまま倒れ込んでしまいたくなる。だが、坑内に反響しながら近づいてくる数人分の声と足音、それに松明のものらしき明りが、薄れかけていた意識を引き戻してくれた。村人たちが祭壇のなかにまでタツオを追いかけてきたことは明白だった。
 彼らにしても禁忌を破ってトトロに近づくことは恐ろしかったが、それ以上に、二百年近くつづいてきた儀式を邪魔したタツオが憎かった。村に火を放ったタツオが憎かったのだ。

 怒りに燃える村人たちは、タツオを取り囲む。もはや、ここが神聖な場所だということは二の次で、タツオを血祭りに上げることが最重要であるらしかった。
「止めなさい、ここはトトロさまの祭壇ですよ!」
 サツキの声に男たちは一瞬たじろぐものの、誰かの漏らした呟きがその緊張を破った。
「トトロなんているわけねえだろ」
 坑内に思いのほか大きく反響した呟きが、男たちの胸中に残っていた最後の楔を粉々に粉砕した。もはや男たちは、神聖なトトロの祭壇をタツオの血で汚すことに何のためらいも抱いてはいなかった。
 タツオは覚悟を決めて目を閉じる。しかし、殴りつけられる痛みが襲ってくる代わりに、男たちの動揺した呻き声が耳を打ってくる。
 何ごとかと思って目を開けたタツオは、男たちが見上げているものの存在に気がつき、その視線を追って頭を巡らせた。そして――そこに立つトトロを見た。
「と、と……ろ……」
 呻くことしかできなかった。
 その場に居合わせた全員が凝視する一点に、ずんぐりとした毛むくじゃらの巨体が確かに見えていた。それは紛れもなく、言い伝えられてきた鬼、トトロだった。
 タツオが呆気に取られていると、トトロの太く短い腕が振り下ろされる。それにあわせて、ぐちゃ、という鈍く湿った音がして、赤黒い粘液が飛沫を上げた。一瞬遅れて理解する。ああ、男の身体が爆ぜたのだ、と。トトロの拳が、男を頭から叩き潰したのだ――と。
「ひ、ひっ……ひいいぃぃ!!」
 誰かが悲鳴を上げた。それが合図となった。茫然自失から立ちなおった男たちが、我さきにと逃げ出していく。トトロはそれを追わない。正面に立ち塞がった娘をじっと見下ろしていたからだ。男のひとりが取り落としていった松明の揺らめきが、トトロとサツキの対峙する姿を映し出している。
 トトロはじっとサツキを見下ろしている。サツキはトトロを見上げ、口を忙しなく上下させている。
「さあ、トトロさま。わたしを殺して、そのお怒りを鎮めてください。わたしが死ねばいいんです。わたしが殺されればいいんです。そうすれば、メイは死ななくて済む。誰も死ななくて済む。だからわたしは死んでもいいんです。ううん、死ななければならないの。それが義務なの、責任なの。わたしは、わたしは……嫌だ、本当は死にたくない。まだ恋もキスもしたことないのに、死にたくないよ。でも、仕方ないの。ごめんね、勘太。わたし、だって、死んじゃうんだもん。一緒にいても悲しくなるだけだよ。だからごめんね。嫌だよ、死にたくない。一緒に遊びたい。いっぱいっぱい、遊びたかった。生きたかった。メイ、ごめんね。お姉ちゃんがいなくなっても泣いちゃ駄目だよ。嫌だ、嫌だよ。嫌だ嫌、嫌嫌。死にたくない、嫌、嫌々死にたくないないない――!!」
 目から流れる涙はまるで機械的で、「嫌だ」と「死にたくない」をくり返す機械になったサツキの姿を、タツオは見ていられなかった。だから、きつく目を閉じる。だから、目を開けていたとき以上にはっきりと聞いてしまう。
 ぐしゃり。
 反射的に瞼を上げたタツオの目に、潰されたサツキの残骸が映った。その瞬間、タツオの意識は赤一色で染まった。
「うっおおおぉぉおおおっ!!」
 絶叫し、トトロに殴りかかる。そして――。

 ぐしゃり。

 タツオが最後に見た光景は、無造作に振われたトトロの前肢が眼前に迫るところだった。タツオの意識は、そこで永遠に途切れた。



 昭和三十三年、五月某日。
 惨劇は、まるで予定調和であるかのように、起きる。
 サツキは死ぬ。
 サツキが死ななければ、メイが死ぬ。
 まるでそれがルールだとでも嘲笑うかのように、死ぬ。
 嘲笑う……誰が? いや、何が?
 ――そんなのは決まっている。

 昭和三十三年、五月某日。
 くろすけの鳴く頃に、トトロはまたも嘲笑うのだ。




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