くろすけの鳴く頃に 〜とおもころし編

 小学六年生のメイは今年で十一歳なる。
 父、草壁タツオとともに塚森村へ引っ越してメイは、荷物を運び入れている最中、村に住む少年、勘太と出会う。
「やぁい、おまえの家はお化け屋敷〜」
 目が合うなりそう言って走り去っていった少年への第一印象は最悪だった。
 メイと勘太は、ひとつしかない村の小学校の、ひとつしかない六年生のクラスですぐに再会することになる。最初はいがみ合ってばかりの二人だったが、急な夕立で立ち往生していたメイに勘太が傘を貸した一件以来、ふたりの仲は急速に深まっていく。
 しかし、その頃からメイは黒い染みのようなものが視界の端で蠢く幻覚を見始めるようになる。幻覚の頻度や現実感は、まるで勘太との関係に比例しているかのように、日を追う毎に強く、頻繁になっていった。
 幻覚はついに日常生活に
支障をきたすまでに膨らみ、メイはその日、自宅の庭先にドングリを埋めていた際に、巨大な異形のまぼろしを見て倒れてしまう。精神性疾患による四肢の痙攣が見られたために急遽、町の病院に搬送される。
 医師から、長期の入院が必要だ、と言い渡される。
 それから数週間――。
 勘太は数日置きながら足繁く見舞いに訪れていた。その甲斐があったのか、メイの容態は一時期の惨憺たる様子が嘘だったかのように回復して、入院から一ヶ月と待たずに一時帰宅を許されるまでに復調した。
 しかし帰宅予定日の前夜、メイは病室を抜け出してしまう。病棟の性質上、窓は開かず、出入り口も厳しく監視されていたはずだというのに、メイは忽然と姿を消したのだった。

 病院関係者はメイの脱走に気づいてすぐに付近の捜索を開始した。
 このとき病院側は、警察へはおろか草壁家にも連絡を入れなかった。病院の周囲に民家や交通機関はなく、小学生の少女が徒歩で歩ける範囲はたかが知れている。
 また、こうした場合に脱走した患者が向かう先は自宅の方角と相場が決まっていた。だから病院の警備員たちは、その方面を重点的に捜索すればすぐに見つかると予想していた。
 これは根拠のない自信ではなく、過去に何度かあった脱走騒ぎから得た、実績ある自信であった。
 しかし、メイの身柄を保護することは夜明けを迎えても叶わなかった。さすがにこれ以上、事実を伏せておくことは憚られ、警察と草壁タツオにメイ失踪の連絡がいく。
 大慌てで病院に向かおうとしていたタツオは、庭先で倒れているメイを発見する。まだ背の低い苗木の足元に倒れ伏したメイの顔は微笑んでいた。
 苗木が植えられているのは、メイがドングリを埋めた場所だった。
 いつかの見舞いでメイが「家に帰る頃にはドングリが目を出しているかな」と気にしていたことを覚えていたタツオが、帰ってきたメイを驚かせようと思ってコナラの苗を植えなおしていたのだった。
 メイはその後、病院に帰される。疲労のために倒れていただけで、命に別状はなかった。しかし当然、翌日の一時帰宅は取り消しになった。
 メイの帰宅が延期されたことでタツオや勘太は落胆したが、当人であるメイは大して悲しそうではなかった。その理由を彼らが問い質しても、メイは意味深に笑うだけで教えはしなかった。
 しかしふたりは、メイがときどき病室の窓に目をやってなにかを確認するような仕草をするようになったことを見逃しはしなかった。
「きっと窓辺にやってくる鳥でもいるのだろう」
 ふたりはそう納得していたが、実際に鳥がやってくる現場に出くわしたことはなかった。
 退院は遠のいたが穏やかな日々――は、またすぐ唐突に終わる。
 折りしも明日はメイの誕生日で、退院許可は出なかったものの、病室でささやかなパーティを開くことになっていた。
 その前夜、メイはまた病室から消えたのだった。
 今度もまた忽然と姿を消し、夜を徹しての捜索にも関わらず、ついに見つからなかった。
 今度はタツオにもすぐさま連絡がいったら、庭先にメイが倒れているということもなく、タツオと勘太が心当たりを探しまわってもついに見つけることはできなかった。
 朝になって、メイはとうもろこし畑の中で冷たくなって発見される。しかし見つかったのは頭部――首から上だけだった。まるで畑に植えられた作物であるかのように、血の気の失せた生首だけが残されていた。

 すぐさま警察に通報がいって凶悪な殺人事件として大々的に捜査が行われた。現場は柔らかく耕された畑であり、足跡が残りやすい。
 当初はなんらかの痕跡がすぐに見つかると思われたのだが、大方の予想に反して、見つかったのはまるで漫画に出てくる怪獣が残したかのごとき巨大な足跡だった。
 また、足跡の主が落としたと思われる長い体毛も発見されており、遺体の首を引き千切った際についた爪痕などから、メイを殺害した犯人は当初、森に棲息している巨大な肉食獣かと考えられた。
 虎か熊か、はたまた大蛇か――村人たちは戦慄したが、解剖所見を正しく見るならば、村の近辺に巨大な肉食獣が巣食っていて畑まで下りてきているのだという考えは否定されることになる。
 なぜなら、足跡の大きさと首を一掴みで引き千切っている爪の大きさから見て、メイを殺害した獣はアフリカ像に匹敵する巨躯であろうと導けるからだ。
 いかに大型の虎や熊がいたとしても、そこまで大きくなるはずがないし、大蛇にはそもそも爪がない。
 この事件について、塚森村の老人たちは口を揃えて「トトロさまの崇りだ」と恐れ戦いていた。
 これは塚森村に古くから伝わる伝承――十年に一度、森からトトロという巨大な鬼がやってきて、十歳の子供を攫っていく、というトトロ伝承に犯行が酷似していたためと思われる。
 メイが殺されたのは十一歳の誕生日を迎える前日で、十年前にも当時十歳だった村の児童が数名、かくれんぼの最中に行方不明になるという事件があった。
 警察はこの事件を、トトロ伝承に擬えた猟奇的な犯行と断じて大掛かりな捜査を行い、容疑者を何名か取り調べる。
 だが結局、容疑者全員に確固たるアリバイが証明されて、犯人を見つけることはできなかった。
 捜査は暗礁に乗り上げたまま、事件から二年後の昭和三十五年六月、捜査は事実上、打ち切られる。犯人はおろか、遺体の胴体すら見つからまま、事件は終わったのだ。
 なお、草壁タツオは、メイの頭部が発見された直後、自宅で首を吊って死亡していたところを勘太によって発見された。
 外傷はなく、また死亡推定時刻がメイの頭部発見と前後していたため、娘の死にショックを受けたための自殺と判断された。

 事件から十九年後の五月。
 都会に出て自分の家庭を築いていた勘太は、ずっと伏せっていた祖母がいよいよ危ないという報を受けて塚森村に帰郷する。
 病床の祖母は勘太を枕元に呼び寄せ、消えるような、しかし一生忘れられないような鬼気迫る声でこう告げた。
「勘太、おまえはもう帰れ。そして、少なくとも、おまえの娘が十一歳になるまで絶対、村に連れてくるんじゃねえ」
 勘太はすぐに、祖母がトトロ伝承のことを言っているのだと理解した。
「大丈夫だよ、婆ちゃん。だって十年前には何も起きなかったじゃないか。トトロはただの伝説だ。そんな鬼、いないよ」
 しかし祖母には聞こえていないようだった。
「いいか、勘太。メイちゃんはな、自分が十回殺されて食われてやる。だから村のもんに手ぇ出すな、って鬼に約束させたんだ。んだども、鬼が約束を守るとはかぎんねえ。だから勘太、おまえはもう村に近づくな」
 そこまで話したところで祖母は力なく呻き、最後にこう呟いて息絶えた。
「トトロさまは本当にいるんじゃ」

 祖母が今際に言い残した言葉には鬼気迫るものがあったが、それでも勘太には伝承の鬼がメイを食い殺したのだ――などという与太話を信じる気にはなれなかった。
 犯人は見つかっていないだけで、いまもどこかで生きている。絶対に空想の存在などではない。
 たとえ村の人間や警察が「犯人はトトロだったのかもな」と諦めの言葉を口にしようとも、おれだけは最後まで犯人への憎しみを忘れまい――勘太はそう決意を新たにするのだった。
「お父さん、見てぇ」
 縁側に立っていた勘太のそばに、今年で四歳になる娘が駆け寄ってくる。その手には、なにかが大切そうに握られていた。
「それはなんだい?」
 勘太がそう問うと、娘は得意げな顔をして手を開いた。しかしその手にはなにも握られておらず、ただ真っ黒く汚れていた。
「……あれ? さっき黒いモジャモジャを捕まえたのに……逃げられちゃった。でもね、こっちはちゃんとあるよ」
 言いながら、娘は反対側の手でポケットを探ると、小さな手から零れんばかりのドングリを掴みだして勘太に見せびらかした。
「やあ、すごいなあ。どこで拾ってきたんだい?」
 勘太は父親の顔で笑いかけたが、返ってきた娘の言葉に表情を凍りつかせた。
「ううん、拾ったんじゃないよ。ととろに貰ったの」
「え……」
「これはね、お菓子なんだって。あと六年したら、わたしも食べものをもってくるように――っていう約束なんだって」
「ね、ねえ……そのトトロって、どんな人だい。おじさん? それとも、おばさん?」
「ううん、違うよ。あのね、ととろは丸くて大きくて毛もじゃなの」
「そうか。太っていて、髭を生やしたおじさんだったんだね」
「違うの! あのね、ととろは人間じゃないの!」
 それ以上、勘太が何度言葉を変えて問い直しても、娘の返事は変わらなかった。勘太が怖い顔をしたため、そのうちに娘は泣きだしてしまう。
「ととろなの、ととろ、ととろ!」
 そう言って泣きじゃくる娘の姿に、勘太は初めて思った。
 トトロは本当にいるのかもしれない――と。

 殺されてしまった十九年前の五月は二度と、勘太の手には戻らない。
 だから勘太は逃げるのだ。
 くろすけの鳴く頃にきっと、惨劇が終わるのだと信じて。




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