『探偵小物語』

 探偵の朝は、一杯のコーヒーから始まる。
 すこしだけ深く挽いた豆に、砂糖をひとさじ――これこそが、真の味わいだ。
 舌のうえに広がる薫り高い苦味と、その奥でひっそりと花開く一厘の甘味。それは人生における一滴の涙にも似ている。日々のまにまに思いだす、少年時代の思い出のように塩辛い。
「先生、それ、塩。砂糖はこっちです。いい加減、憶えてください」
 ……なぬ?
 遠田宮乃の指摘に、大道寺十郎はあわてて容器のラベルを確認する。そこにはたしかに「塩、間違えないように」と書いてあった。
「……まあ、これはこれで美味い」
「そんなわけないでしょ。いま淹れなおしますから、先生はそこで座っていてください」
 宮乃は大道寺の手から塩味コーヒーを取り上げると、台所へ歩いていった。大道寺は宮乃の背中を見送りながら呟く。
「探偵の朝は、こうして始まる……か」

「宮乃くん、なにかあったら携帯にかけてくれ」
 大道寺は玄関の戸に手をかけながら、コーヒーカップを片付けている宮乃に声をかけた。
「はい、わかりました。いってらっしゃい、先生」
 宮乃の声に見送られて、大道寺は外へ出た。都心の一角であるはずのこの街に、朝の喧騒は訪れない。この街が賑わうのは太陽のいないあいだだけである。ここは大都市の夜の顔であり、ついさっき眠りについたばかりなのだ。
 大道寺は小さく伸びをしながら、猥雑に並ぶビル群と、静まりかえったネオンを眺めた。
(市村由佳は、いまもこのビル群のどこかにいるのだろうか?)
 今現在、大道寺探偵事務所が抱えている依頼は一件の「人捜し」である。従業員が二人――うち一人は事務担当という零細経営なので、一度に受ける依頼は一件だけときめている。
 依頼人の名前は市村淑子。地方都市に住む五十代の女性だ。娘の由佳を捜して欲しい――というのが依頼内容だった。市村由佳は半年前、家出同然に上京したきり、連絡ひとつしてこなかった。それが二週間前に突然、「帰るかもしれない」と電話してきたのだという。しかし一向に由佳は帰ってこない。単に予定が変わっただけなのかもしれないが、淑子はどうしても胸騒ぎを抑えられなかった。半年間出さなかった捜索届を提出したが、それでもじっとしておれず、こうして探偵に依頼することを考えたのだそうだ。

 この依頼を受けたのが三日前。その日から今日まで、大道寺は市村由佳の痕跡を追っていた。
 淑子が人づてに聞いた「由佳がホステスをしている」という噂を足掛かりに、写真と足と人脈を使った調査で、由佳が半年間ホステスとして勤めていた店「バタフライ」を二週間前に辞めていたことまでは調べがついていた。だが、そこからが分からなかった。「バタフライ」のホステスや従業員に訊き込んでも、誰も由佳が辞めた後にどうするつもりだったのかを聞いていなかった。
 店の客と駆け落ちした可能性について訊ねたら、「百二十パーセントありえない」と店の人間全員が断言した。由佳は客に対しても壁を作っていたようだ。顔はたしかに楽しげな表情なのだが、それがどうしても笑顔に見えなかったのだという。なまじ整った顔立ちであることがなお一層、男性客の劣等感を刺激したことだろう――由佳には客商売の素質がなかったのだ。
 また、市村由佳という人物は相当な秘密主義だったようで、店に知らせていた住所はでたらめだったし、自宅に誰かを招待するということもなかったそうだ。必要な連絡はすべて携帯でやり取りしていたという。
 それでも、ごく僅かな証言と地道な訊き込みの結果、大道寺は由佳が住んでいたアパートを突き止めることに成功していた。だが、そこも二週間前すでに引き払われた後で、手掛りになりそうなものは一切残されていなかった。アパートの大家に訊ねても、普段から住人と直接話したりはしないといわれただけだった。
 市村由佳につづく糸は、そこで途切れてしまっていた。
 捜そうにも、どこを捜せばいいのか――それが大道寺の偽らざる本音だった。

 次の日――依頼から四日目の朝、依頼人である市村淑子が事務所に訪れた。娘の安否を気遣うに、居ても立てもいられなくなり、調査状況を訊ねにきたのだという。
「探偵さん、娘は……娘は無事なんでしょうか?」
 淑子は夢を見たのだという。由佳が真暗な穴に沈んでいき、「お母さん、助けて」と手を伸ばしながら最後には闇の中に消えてしまう夢だったそうだ。
「現在調査中です。わたしを信じてください」
 大道寺は抑揚のない声でそう答えた。

 糸が再び見つかったのは、その日の午後のことだった。
「よお、大道寺くん」
 宮乃からの連絡で事務所に舞い戻った大道寺を迎えたのは、年季を感じさせるだみ声だった。
「カバさん……」
 蒲田弘造、通称「カバさん」――この街の裏も表も知りつくした、生え抜きの刑事だ。独特のだみ声とのんびりとした風体から、彼を知るものは親しみと敬意を込めて「カバさん」と呼んでいる。
「カバさんが連絡してきたってことは、やっぱり例の件で?」
「おう、その通り。大道寺くん、きみの危惧したことが当っちまったかもしれん」
 蒲田刑事の言葉に、大道寺は後悔の溜息で答えた。
「あの……先生の危惧していたことって?」
 二人のやり取りを黙って見ていた宮乃が、たまらず口を挟む。
「ああ、宮乃くんには言いそびれたままだったな……」
 大道寺は依頼を受けたその日、警察の身元不明者リストのなかに市村由佳がいないかどうかを確かめてもらうよう、蒲田刑事に頼んでいたのだ。
 大道寺の説明を聞いた宮乃は、二人の会話の意味に気がつき、はっと口元に手を当てる。
「じゃあ、先生の危惧が当ったっていうのは――」
 蒲田刑事がそのさきを継いで答える。
「まだ断言はできん。ただ、写真で見る限りは……おそらく」
 大道寺探偵事務所の狭い応接間を、沈黙が支配した。
 糸は見つかった――糸のさきは真暗な穴へとつづいていた。


 市村由佳の死因は、転落による頭部損傷――港付近の崖から落ちて、浅瀬に頭を打ったのだ。死亡したのはおよそ十日前――淑子に連絡があってから一週間後、大道寺が依頼を受けた一週間前。釣りをしていた男性が発見。事故死か他殺か、はたまた自殺かは断言できず。当時の目撃証言はなし。免許証その他、身元を確認できるものは所持しておらず。写真と母親の確認により市村由佳本人と断定。

「ありがとうございました」
 そういって、市村淑子は大道寺に深々と頭をさげた。市村由佳の遺骨が納められた骨壷を両手で抱きかかえている。
 追従するようにして、大道寺も頭をさげる。
「いえ――ご期待に添えることができず、申し訳ありませんでした」
 しばし、沈黙の時が流れる。さきに頭をあげたのは大道寺だった。
 ――捜し当てるべき人間は既に死んでいた。だが大道寺は、その死に不審な点を見出していた。市村由佳が身分を示すものをひとつも所持していなかったのは何故か? 港に行ったのは何故か? 母に連絡を取ったのは何故か? 誰にも住処を教えなかったのは何故か? 突然上京したのは何故か?
 その答えを求めて調査を進めた結果、大道寺はある男性へと辿り着いていた。
 大道寺はそのことを淑子に伝えるべく、口を開いた。
「由佳さんの死について幾つか調べたのですが……」
「いえ、もういいんです」
 大道寺を遮った淑子の言葉は、穏やかだが決然としていた。
「もういいんです。今更なにを知ったところで、もう由佳は帰ってきませんから」
 静かな口調に代わりに、骨壷を抱きしめた震える両手が淑子の内心を語っていた。憎しみで由佳を忘れてしまいたくない――そう語っていた。
「……申し訳ありませんでした」
 大道寺はもう一度、深く頭をさげた。

 ひとつの依頼が過ぎ去ったその夜、大道寺はガード下のおでん屋台にいた。
「おやじ、はんぺんと大根、それとお酒もう一本」
 ひとりで黙々と食べては、ひたすら飲んでいる。だがその表情はとても、おでんの味を堪能しているようには見えない。
「先生」
 大道寺に声をかける女性――宮乃だ。
「宮乃くん……きみにはこの屋台、教えてなかったと思ったが?」
「蒲田刑事に聞いたら、きっとここだろう、って教えてくれました」
「ふん、カバさんめ」
 箸を止めたのも束の間、大道寺は宮乃にかまわず、また食べ始める。
 宮乃はなにもいわずに大道寺の横に腰掛ける。
「玉子とがんもどき、あと昆布とお酒ください」
 並んで座った大道寺と宮乃は、しばらく無言のまま咀嚼と嚥下をつづけた。
 咀嚼音とおでんの煮える音がやけに大きく聞こえる。
「先生は――」
 さきに沈黙を破ったのは宮乃だった。
「先生は十分にやったと思います」
 大道寺は答えず、酒をぐいと飲み干す。宮乃はかまわずつづける。
「依頼された時点でもう死んでいたんですから、どうしようもありませんよ。それに、先生は由佳さんの死の真相も突き止めたんでしょう? そこまでやれば十分じゃないですか」
「いや――」
 大道寺は自嘲的に唇を歪めた。
「あれは調査じゃない。ただの自己満足だ。やるんじゃなかったよ」
「そんなこと……」
 反論しかけた宮乃を遮って大道寺はつづける。
「宮乃くんのいうとおり、市村由佳の死について、おれが負い目を感じる義理なんてなかったんだ。それをおれは、自分勝手なヒロイズムに溺れて、頼まれてもいない調査をおっぱじめやがった。一歩間違えていたら、依頼人にまで危険に巻き込んでいたかもしれなかったんだ」
「でもその調査は、先生が良かれと思ってやったのだから……」
「だからそれが馬鹿だっていうんだ!」
 コップを持った手がカウンターに叩きつけられ、どんと音を立てる。
「よかれと思って真相を調べるだと? そんなことをいつ、依頼人が望んだってんだよ。真相を知りたいと思ったのはおれだ。おれは自分の好奇心を、依頼人の心情だと偽っていたんだ」
 うつむいて呟くようにつけ足す。
「探偵失格だ、まったく」
 大道寺はそう言うとまた押し黙り、おでんを口に運びはじめた。
 宮乃も黙ったまま、じっと宙を睨んでいる。
 ――再び、しばしの沈黙。
「先生は自分が完全無欠の探偵だと思っているんですか?」
 今度も、沈黙を破ったのは宮乃だ。
 眉根を寄せる大道寺に、宮乃は畳みかけるようにいい放つ。
「この際だからいわせてもらいますけど、先生は塩と砂糖を間違えるくらい、注意力散漫な三流探偵です。だから依頼を失敗することだってあるし、ついつい先走っちゃうことだってあります。先生がどんなに努力したって、完全無欠に立ち回れやしません。そんなの当然です!」
 普段の物腰からは想像できない宮乃の剣幕に、大道寺は怒ることも忘れて聞き入ってしまう。
「だいたい、先生は今回、なにも間違ったことはしてないじゃないですか。由佳さんは最初から死んでたのだし、市村さんに危険が及んだかもしれなかったというのは、“かもしれなかった”って推測の完了形じゃないですか。そんなことでグチグチ悩むんだったら、探偵なんか辞めちゃったらいいじゃないですか!」
 宮乃は一息に捲くし立てて、ほとんど口をつけていなかったコップをぐいっと飲み干した。宮乃の顔が見る間に赤くなり、上体が大きく傾いだ。
 大道寺がとっさに肩を持って支える。
「おい、大丈夫か? アルコール弱いのに一気飲みなんてするから」
「だ、大丈夫です……」
「なに言ってるんだ。顔、真赤じゃないか……とにかく、事務所まで送るから」
「先生!」
 宮乃を大道寺に寄りかかったまま、勢いよく立ちあがった。そのはずみでよろめいた宮乃は、とっさに大道寺の襟首を掴む。
「……」
「……」
 ――息の触れる距離。
「……先生」
 宮乃が囁くようにいう。
「先生は、立派な探偵、です」
 宮乃は目を閉じて、大道寺に体をあずける。
「宮乃くん……宮乃くん?」
 大道寺は宮乃の体を揺さぶってみるが反応がない。どうやら、酔いつぶれてしまったようだ。

 宮乃の肩を担いで歩き去っていく大道寺を見送りながら、おでん屋体のおやじはにやりと呟いた。
「探偵の夜は、こうして始まる――ってか」



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