『紳士の国のホームズ』

「犯人はこのなかにいる」
 ワトソンの問いに、ホームズはそう答えた。
「なんだって、ホームズ。じゃあ、例の事件の犯人がもうわかったというのかい?」
「まあね。なに、それほど難しいことじゃないよ」
 興奮するワトソンとは対照的に、ホームズはいたって冷静だ。手書きの的に向かってダーツの狙いを定めている姿は、事件よりもダーツのほうが難問だといわんばかりだ。
「だけどホームズ、あの事件はさしもの君も首を捻った難事件だったじゃないか」
「ところが、そうでもなかったんだ。発想を逆転させれば、イギリス一の名探偵であるこの私ならば、簡単に解決できる事件なんだよ」
 謎かけのようなホームズの言葉に、ワトソンは首をかしげる。
「ふむ……相変わらず、君にとっての“簡単”は僕にとっての“至難”のようだ。だけど、犯人はあの容疑者四人のうちの誰かなんだろ?」
「ああ、そうだよ――っと」
 語尾をかけ声代わりに、ホームズはダーツを投げる。だが、ダーツは的を大きく外して壁に突き刺さる。
 ワトソンはそんなホームズにおかまいなしに話しつづける。
「わかった、彼だろ。あの実業家ダグラス・ロンバートが犯人だろ。僕は最初に見たときから彼が怪しいと思っていたんだ。彼は伯爵が殺されたときのアリバイがない。自室で酒を飲んでいたといっていたが、そんなの嘘にきまっている。それにロンバートには動機がある。彼の事業が失敗したは、伯爵が裏であくどい手を使ったからだって、もっぱらの噂だ。なあ、そうだろ、ホームズ?」
 そこまで一息に喋って、ワトソンはホームズの答えを待つ。
「そうだな、ワトソン君。ロンバートにはアリバイがなくて動機がある」
「じゃあ、やっぱり――」
「だが彼じゃない。たしかに、ロンバートには殺意があっただろう。睡眠剤と偽って興奮剤を屋敷に持ち込んだのはその証明だ。量を加減すれば薬だろうが、心臓の弱っていた伯爵にはとっては十分な毒だ。しかし、伯爵の死因は心臓発作でも毒殺でもなく、絞殺だった」
「だけどホームズ、あの青年に殺意があったというのなら、やはり伯爵を絞め殺したのは彼じゃないのか?」
「まあ考えてみたまえ。ロンバートは伯爵の飲み物に興奮剤を混ぜて心臓発作を起こすさせようと計画していたわけだ。つまり彼は、伯爵が何者かに殺されたという場合に自分に疑いがかかることを知っていたんだ。もし私が彼だったら、懐に毒を忍ばせながら絞殺したりはしないよ」
「絞殺だったことが、ロンバートが犯人じゃないことの証明だと?」
「そうとはいい切れない。伯爵の顔を見たら、かっとなって――ということかもしれない」
「ふむ……じゃあ、伯爵夫人のマーサ・ブレントについては? 僕はね、彼女の伯爵を見る目が尋常じゃないと思っていたんだよ」
「たしかに夫人にもアリバイがなかったね。本人の言葉によれば、彼女は伯爵が殺された時刻、街に出かけていたそうだが、時間的に犯行が不可能とはいい切れない。伯爵を最後に見たというのは彼女だったから、伯爵を絞殺した後で出かけたのかもしれない。しかし、だとすると動機はなんだろうね、ワトソン君?」
「そりゃホームズ、彼女は伯爵を憎んでいたに違いないよ。君だってあの目つきを見ただろう? 父親の借金のかたに無理やり結婚させられたのだというじゃないか」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。だが絞殺というのは腑に落ちないね。伯爵も老いていたとはいえ、かつては武名を馳せた人だ。夫人の細腕で絞め殺せたとは考えにくい」
「しかし、その考えにくいことが起こったのかもしれないぜ。伯爵ももう年だったのだから」
「そうかもしれない。だが殺すほうの人間の心理を考えてもみたまえ。自分よりも体格の優った人間を殺そうと思ったら、刺殺か毒殺を考えるものだろう」
「だけど、つい発作的に首を絞めたら成功してしまったのかもしれないぜ?」
「そのとおり。つまり夫人についても、白とも黒とも断言はできない」
「ふむ……では伯爵の息子クライド・ブレントが犯人なのかい? 彼は問題となる時刻、テラスで人を待っていたそうだが、それを証言できる人はいない。別段、変わった物音などはしなかったといっていたが、彼が犯人だとしたらそれも当然だろうな」
「そしてクライドにも動機がある。彼は伯爵の財産を勝手に持ち出したことがばれて、勘当されかかっていた。だが伯爵が死んだことで、遺産相続権は彼の手に残った。しかし、彼が人を待っていたというのは本当だ。結局その相手は列車事故で来れなかったが、それを事前に知ることは物理的に不可能だ。事故がなかったら、まさにその相手が来る頃に父親を絞めていたことになる。普通、そんな危険を冒すだろうか?」
「つまり、クライドは犯人じゃないと?」
「まだどちらとも断定はできない、ということだね」
「……まさか、クレイソン男爵夫人が犯人だとはいわないだろうね? 彼女が伯爵を殺したとは、僕には到底思えないね」
「ほう、それはどうしてかね、ワトソン君?」
「どうしてもなにも、未亡人には動機がない。彼女の死んだ夫は伯爵と旧知の仲だったし、男爵が破産しかけたときに私財を投げ打って援助したのも伯爵だったはずだ。未亡人は、伯爵に恩こそあれど恨みがあるはずなんて――」
「ところが、事実はそうでないらしい。調べてみてわかったのだが、男爵の破産騒動は伯爵が画策したことのようなんだ。つまり、伯爵は自分で破産に追い込んだ男爵を自分で救ったことになる」
「男爵に恩を売るつもりだった?」
「そう――正確には男爵夫人にだ。当時、男爵家の使用人だった男によると、伯爵はクレイソン男爵夫人に横恋慕していたのだそうだ」
「まさか伯爵は、借金を肩代わりする見返りに関係を強要したというんじゃ……」
「ブレント夫人の時と同じ手さ。当事者三人のうち二人はすでに死んでいる。未亡人もいまさら醜聞を口外したりはしないだろう。だから真偽の程はわからない。だが、男爵が馬車を暴漢に襲われて亡くなった事件――その裏で、伯爵が糸を引いていたとしたら?」
「なるほど。男爵の死後、未亡人は伯爵を頼った。いや、頼らざるをえなかった。そうだとすれば、未亡人には夫を謀殺された復讐という動機があることになる」
「そしてアリバイがない。未亡人は気分が優れないという理由で自室にこもっていたそうだが、それを証明できるものはいない。ただし、ブレント夫人についてと同様、絞殺という手段を選ぶとは考えにくい」
「つまり未亡人も、黒ではないが白でもないと」
「そのとおり。この事件には物証が一切存在しないんだ」
 敗北宣言ともいえる言葉をホームズはしれっと言ってのける。聞いているワトソンの方が穏やかではいられない。
「おいおいホームズ、君はさっき犯人がわかったといったじゃないか」
「結論を急いではいけないよ、ワトソン君。この事件を解決するには、犯人について考える前に容疑者四人の関係について考えなくてはいけないんだ」
「というと?」
「まずロンバートだ。彼とクレイソン未亡人、おそらく一度は関係を持った仲だろうね」
「なんだって!?」
「ほら、四人から事情を聞いた後、廊下にハンカチが落ちていたのを憶えていないかい? あのとき、私たちが拾う前にロンバートが拾いあげて、迷うことなく未亡人に手渡していた。だが、あのハンカチの柄は明らかに男物だったんだ。男爵の形見の品なのだそうだが、なぜそれをロンバートが知っていた?」
「二人はこれまで面識がないといっていたけれど、本当は既知の仲だったと」
「それも、人に聞かれて咄嗟に隠してしまうような関係ということだよ」
「なるほど」
「しかし、クレイソン未亡人はロンバートを愛してなどいない。反対に憎んでいる」
「なんだって……ロンバートと未亡人は浅からぬ関係だといったじゃないか?」
「それはロンバートに自分を信じさせるためだろうね。男爵の乗った馬車が襲われたとき、ロンバートも同乗していたんだ。そのときの御者の証言では、寄りたい場所があるといわれたので普段は通らない裏道を通ったのだそうだ。そして馬車は襲われて男爵は死に、ロンバートは生き残った」
「ホームズ、君にいいたいことはわかったぞ。ロンバートは伯爵に命令されて、男爵の馬車を人通りのない通りに誘導させたというんだろう。そして未亡人はそのことを聞き出すためにロンバートに近づいたというんだろう?」
「その通り。しかしここで興味深いのは、ロンバートの方でも未亡人を愛していなかったということだ。おそらく、ロンバートが伯爵の片棒を担いだという推測は正しいだろう。彼の宇宙は金を中心にまわっている。未亡人に近づいたのも男爵家の財産目当てであって、彼女自身に興味からではない」
「ふむ……」
「このくらいで驚いてもらっては困るよ、ワトソン君。伯爵の息子クライドとその実母ブレント夫人は仲が悪かった。君も感づいていたように、夫人にとって伯爵は憎悪の対象でしかなかった。それは伯爵の血をひいているクライドに対しても同様だったんだ――実の息子だというのにだ。クライドも随分と鬱屈した少年時代を送ったのだろうね、いまでは彼も夫人を憎んでいる。ワトソン君、きみは気づかなかったようだが、夫人のあの目つきは伯爵だけにではなく、クライドにも向けられていたんだよ」
 ホームズは一息吐いてつづける。
「歪んだ環境で育ったためか、クライドは自分の意にならない状況や手に入らない物事に対してすぐに激昂するという短絡的な性格だった。ようするに子供なのだな。これは様々な人から証言が取れている。そんな彼が昔一目惚れした相手がクレイソン未亡人だったんだ。しかし伯爵の手前、彼は未亡人に言い寄ることができなかった。そうこうしている間に未亡人がロンバートと一線を超えたことに彼は気がついてしまう」
「なるほど、それで精神的に未熟なクライドはクレイソン未亡人とロンバートを憎むようになった。ロンバートに対しては逆恨み、未亡人に対しては可愛さ余って、というやつだな」
「その通り。だがこれで終わりじゃない。前にいったように、ロンバートは金と他人の命なら、迷うことなく金を選ぶ男だ。もしブレント夫人かクライドが犯人だったとしても、悲しんだり弁護しようと思ったりはしないだろう。むしろ、混乱に乗じて伯爵家の財産を掠め取ろうとするだろうな。クレイソン未亡人にとっても、伯爵の血を継いだクライドが犯人だったとしたら喜ぶにちがいないだろう。ブレント夫人とは似たような境遇同士、友情が生まれるような気もするのだが、実際にはその逆だ。女性というのはたとえ憎い相手であっても、自分と寝た男が他の女性に気をやるというのは許せないものらしい――あるいは矜持の問題なのかもしれない。ともかく、ブレント夫人はクレイソン未亡人に対して冷たく当たっていたそうだ。未亡人の方でも、男爵謀殺の計画を知りながら、なにもしなかった夫人に対して好意的になるいわれはなかった」
「ホームズ、ちょっと待ってくれ。クレイソン夫人は男爵謀殺について知っていたというのかい?」
「ああ、これはまだ話していなかったな。すこし回りくどくなるが、黙って聞いてくれたまえ」
 そう前置きして話し出す。
「当時、ロンバートはブレント夫人にも近づいていたんだ。寿命からいっても、伯爵より夫人の方が長生きしていたろうからね。つまり、夫人が相続する遺産を狙っていたんだ。夫人にしてみれば、ロンバートは自分を救い出してくれる白馬の王子にでも見えたのだろう。しかし伯爵が二人の関係を怪しみはじめたので、ロンバートは夫人からあっさり手を引いた。結果から見れば、夫人はロンバートに玩ばれて捨てられたわけだ」
 紅茶で唇を湿らせて、先をつづける。
「それがいま、夫人はあのハンカチの一件でロンバートとクレイソン未亡人の関係に気がついてしまった。自分を捨てたロンバートが、自分の夫――憎んでいるとはいえ――の思い人と関係を持っている。いわば二重の侮辱だ。夫人にとって、これほどの屈辱はなかっただろうね。それで夫人は、なんとかして未亡人の鼻をあかしてやりたいと思った。それであのとき――未亡人が馬車に水溜りの水を撥ねかけられて服を汚してしまったとき、『わたしの服を着るといいわ。あなたには、わたしのお古がよく似合うようですから』と言ったのだよ」
「ははあ、なるほど。僕はまた、随分な嫌味をいうと思っていたが、そういう裏があったとは気づかなかった」
「ところがだ、女の直感とでもいうのだろうか、未亡人はその言葉の裏面に気がついてしまったのだよ――夫人とロンバートはかつて深い関係にあったということにだ。それで未亡人は、夫人がロンバートから男爵謀殺の話を聞いていたかもしれないと思ったのだろう。あるいは、自分を嫌っている女性が自分の憎んでいる相手と関係していたということだけで十分に憎悪を掻き立てるものなのかもしれない。ともかく、あの水溜りの一件以来、未亡人の夫人に対する態度が変わっているんだ」
「それはさすがの僕も気づいていたよ。でも、夫人に嫌味をいわれたからだと思っていた」
「ともかく、夫人は自分を捨てたロンバートに対して悪感情しか持っていないし、夫人と未亡人も互いに反目しあっているんだ」
「――ちょっと待ってくれ」
 ワトソンが手をあげてホームズを遮る。
「夫人がロンバートを憎んでいたことはわかった。だけどブレント夫人とクレイソン未亡人の軋轢は、伯爵が殺された後に生まれた感情だろう? 事件とまったく関係ないと思うんだがなあ」
「最後まで聞きたまえ。つまりなにが言いたいのかというと、容疑者の四人ともに伯爵殺害の動機があり、アリバイがない。誰にでも犯行ができたといえるし、誰が犯人でも決定的な証拠がない」
「それじゃ、犯人はわからないってことじゃないか」
 ホームズは「まあ聞きたまえ」と人さし指でワトソンを制す。
「ここで四人の関係が問題になってくる。四人が四人とも自分以外の三人に対して憎しみを持っているか、まったくの無関心である。すなわち、仮に四人のうちの誰が犯人だったとしても、残る三人が弁護することはないのだよ」
「………」
「そして、この私ホームズは大英帝国が世界に誇る名探偵だ。私が黒だといえば、灰色でも黒になる」
「おいおい、ホームズ……」
「そして、この事件において最重要かつ最優先されるべきことはなにか? それは大英帝国が誇る名探偵に、未解決の事件があってはならないということなのだよ――っと」
 ホームズは語尾をかけ声代わりにダーツを投げる。ダーツは今度こそまっすぐに飛んで的に突き刺さった。
 ワトソンはようやく気がついた。ダーツの刺さった手書きの的には、四人の容疑者の名前が書きこまれていたのだ。

「つまり、犯人はこのなかに要るんだよ」



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