『ジ・ハード』

「ハッハァ、そんなんじゃ当らないゼ!」
 浄銀弾がイズィの残像を撃ち抜いて、床に積まれた肉袋に穴を開ける。黒く濁った血が噴き出して、毛足の長い絨毯を浸していく。ゴシック調の館は、イズィの食べ残しで埋め尽くされていた。そのほとんどが恍惚の表情で干乾びていて、血を流している塊はたったいま生産された肉袋――サイードの同朋で、つい先刻まで生きてショットガンをぶっ放していたばかりの、できたてほやほやだ。
「くそ……悪魔め!」
 撃鉄が空振りして、慌てて装填する。銃にとっての最大の隙。だがイズィは、血塗れの絨毯に仁王立ちのままだ。黄金の懐中時計を、わざとらしい素振りで眺めてはにたにたと唇を揺らしている。
「一秒経過、二秒……三秒……おっと」
 三十二口径の浄銀弾頭が懐中時計の文字盤を破壊する。
「それから悪魔じゃない。吸血鬼イスラエル様だヨ」
 ふいに耳朶を震わせた言葉に、サイードの心臓が跳ね上がる。飛び退きざまに弾丸を叩き込めば、掻き消える残像。サイードは残像を追って、つづけざまに銃を咆哮させる。錬金心肺が唸りを上げて酸素を体中に送り込み、魔導神経系が人外の反応速度で残像を射程に収める――それでも、残像しか捉えられない。
「チッチッチッ。そんな腕じゃぁ、ハエも撃ち殺せないゼ」
 声を頼りに振り向けば、イズィこと吸血鬼イスラエルはもとの位置に同じ姿勢で立っていた。生乾きの体液で台無しになった絨毯の中央で仁王立ちしている。深紅の瞳でサイードを睥睨し、一本立てた人さし指でみずからの首筋をとんとんと叩く。
「はい死んだ。今日七回目、通算百と二十二回目だ……もう少し楽しませてくれないかナァ」
 大仰な身振りで肩を竦め、溜息を漏らす。
「黙れ黙れ黙れ!」
 頭の天辺まで真っ赤にしたサイードは、怒りにまかせて引鉄を引き絞る。セミオート機構の銃は引鉄から指が離れるまで撃鉄を往復させ、あっというまに全弾撃ち尽す。だがイズィには一発として掠りもしない。優雅に身をくねらせれば、まるであらかじめ打ち合わせていた演舞であるかのように、弾丸はイズィのすぐ脇をすり抜けて積み重なった肉袋に穴を穿つ。
「ヒュー、危ない危ない」
 吸血鬼にとって、聖別された銀の弾丸は掠るだけで致命傷となる。己という存在の一から十までが呪詛で構成された吸血鬼は、肉体という枷からほど遠い。物理法則を無視した身体能力、治癒能力を誇り、死すらも吸血鬼には近づけない。吸血鬼を殺そうとしたら、その肉体を滅ぼすよりも、その存在の根源である呪詛を滅することを考えるべきである。そのための浄銀弾なのだ。
 秘力を込めた銀の弾頭が吸血鬼に触れれば、そこから祓魔式――対呪詛ワクチン――が解放されて、吸血鬼という呪いを解呪していく。そうなれば完全解呪に至らなくとも、治癒不能の傷を負わせることができる。
 ――だが、掠りもしなければ意味がない。
 サイードの乾いた唇が動く。
「……殺せ」
 唯一の武器、浄銀弾はもうない。逃げるという選択肢は始めから捨てている。イズィの紅い瞳から目を逸らさないのは、せめてもの抵抗――抗魔コンタクト越しでも吸い込まれそうな光を放つイズィの妖眼をまっこうから睨みつける。
 イズィは大きく息を吸い込み、盛大な溜息を溢す。
「ハァァー、わかってないナァ……サイード、きみたちはぼくの子供たちを皆殺しにしたんだ。そう簡単に安らぎを与えてあげたりするわけ、ないじゃないカ」
「それはこっちの科白だ。イスラエル、おまえは何人、おれの同胞を殺したんだ!」
 激昂するサイードに、イズィは嘲笑を浴びせる。
「おいおい、殺したのきみだろ、サイード。きみがその銃で大切なお友達を撃ち殺したんじゃないか……そこの奴らにしたみたいにサァ」
 振り向いた先は、折り重なったまだ新しい死体だ。サイードと共に館の玄関扉をぶち破った同胞たちだった。そのうちの何人かは襲撃を予見していたイズィの牙に掛かって吸血鬼と化し、また何人かは至近距離で魅了の魔力を秘めた紅瞳に睨まれて下僕と成り果て、サイードを襲った。そしてサイードの銃弾は、一片の躊躇も見せることなく同胞を肉袋に変えたというわけだった。
「そう――サイード、おまえが殺したんだよ」
「ちがう! おれは救ったんだ。ああするしか奴らを救えなかったんだ。殺したのはイスラエル、おまえだ!」
 咆える。イズィは涼しい顔で受け流す。
「いいや、おまえが殺したんだ。なぜって? 殺されそうになったからサ」
 反論を許さず、矢継ぎ早に言葉を射掛ける。
「殺されたくなかったから、殺した」
「死にたくなかった。だから殺したんだヨ。仲間よりも両親よりも恋人よりも、自分を選んだんだよ」
「救いつもりなんてなかった。ただ死にたくなかっただけだ。サイード、おまえはそういう人間なんだヨ」

 記憶が蘇る――。
 幼き日に、親友とふたりで戦闘訓練を抜けだして遊んだ日のこと。
「ぼく、本当は訓練なんて嫌い。でも、そう言ったら怒られるから、ふたりだけの秘密だよ」
 親友の言葉にサイード少年は頷いた。サイードは彼の夢物語のような話を聞くのが好きだった。
「ぼくは戦い方よりも、字を覚えたいんだ。本をひとりでも読めるようになって、ぼくみたいに本を読みたがってるひとたちに読んで聞かせてあげるんだ」
 夢物語だ、とサイードにも彼にもわかっていた。いかに幼くとも、そんなことくらい理解していた。だから、サイードは彼の夢を聞くのが好きだった。
 けして夢で終わらせるまい。いつか戦い方を忘れてもいい日がやってくるときのために、親友の夢を忘れるまい――その思いを胸にしまって、くる日もくる日もつづく戦闘訓練を乗り越えてきた。
 けれど――いまその親友は、呼吸を忘れた肉袋となってサイードの視線の先にある。だれよりも争いを嫌い、争いを終わらせるために己の夢を殺してきた男を――親友を撃ち殺したのは、他ならぬサイードだった。
 サイードの手には、まだその手応えが消えずに残っていた。


「―――」
 サイードの膝が崩れ落ちる。屍から染みでた湿気を吸った絨毯に両膝をつき、まるで神に赦しを乞うような姿勢。
「サイード、きみは悪くない。そう……しょうがないことだったんだヨ」
 イズィはいつの間にかサイードの傍にいて、母親のように彼を抱きしめる。ふたつの鼓動が触れ合う。イズィの鼓動が、ゆっくりとあやすようなリズムでサイードを包み込む。戦意を失った男の目は虚ろで、映す吸血鬼の姿にも反応を示さない。
「さあ、おやすみ。サイード……」
 イズィのささやきが、静謐さを取り戻した館にそっと響く。抱きすくめる頬が近づき、吸血鬼の濡れた牙がサイードの首筋に触れる。
 ふたつの影が重なる。ふたつの鼓動が重な――らない。
「――!?」
 サイードの鼓動が感じられなかった。己の鼓動は聞こえるのだが、触れているサイードの肌からは心臓の音が聞こえてこなかった。
「おまえ、ゴーレムなのか?」
 イズィはそう口にしてから、即座に否定する。サイードは魔導回路で動くゴーレムのように愚鈍でも、肉体組織の腐りはてたゾンビのように鈍重でもない。サイードはたしかに人間だ。だが鼓動が聞こえない。
「うん? これは一体、どういう手品……だ……あ――?」
 サイードの胸元を肌蹴ようと手を伸ばして、イズィは体勢を崩して絨毯に頭を打った。視界が横転するまで、なにが起きたのかわからなかった。
「な、に……が……?」
 イズィは起き上がろうと手をつくが、力が入らずにまたも突っ伏す。身体の内側から頭を殴打される感覚に、視界が明滅する。腹の奥から込み上げてきたものが喉を塞ぎ、吐血となって口腔から溢れる。
 サイードは先ほどと同じ体勢のまま、ただ両眼には明らかな意志の光を宿してイズィを見下ろしていた。その口元にはイズィと同様、込み上げた血が伝っている。
「サイード、おまえ……なにを……グッ」
 横倒しの視界で睨みつけるも、込み上げた血の塊が言葉を許さず。常ならば物理を超越した再生能力も、いまはなぜか機能していない。見下ろすサイードも蒼白い顔で動けず、イズィに止めを刺せずにいる。
 イズィは激痛に襲われる思考を必死に纏め上げ、現状を把握しようと努める。
 ―― 方法は不明だが、サイードには奥の手があったのだ。そしてそれは、自分に再生不可能なダメージを負わせると同時に、サイード自身にも深手を負わせる類のものだろう。でなければ、いまこの好機をサイードが逃すはずがない。そしてまた、この奥の手を発動させるには自分と密着する必要があったのだと思われる。でなければ、自分まで動けなくなる攻撃を仲間が全滅するまで使わなかったことと辻褄が合わない。いや、仲間の死すら計算に入れての作戦だったのかもしれない。心を折った振りをすれば、自分が警戒を解いて接近すると計算した上で――。
「……くくっ、見事だサイード。おまえは、わたしの考えていた以上の男だ。表面上は、同僚の死に激昂してみせても、内心ではすべて計算ずくのことだったのだな。だが、たったひとつの誤算はおまえ自身へのダメージの跳ね返りが大きすぎたことだ」
 吸血鬼――人間を獲物とする狩猟生物の本性を露わにした獰猛な笑みを向ける。深紅の視線が捉えるのは、隠し持っていた浄銀弾を装填する余力もないサイードだ。
 イズィはいまだ倒れ伏したままで、立続けに血反吐を吐くサイードを嘲笑をする。
「いや、こんかいは本当にヤバかった。殺されるかと思ったヨ。実際こうして動けずにいるんだから、もしキミに運があれば、わたしは死んでいたのかもしれない。だが現実はどうだ? わたしは死んでいない。天は、わたしに生きろと仰っているのだよ、ハッハァ!」
 けたけたと哄笑が血塗れた空気を鳴動させる。その両腕は身体を起こそうと絨毯を押し付けるも、がくがくと震えるばかりで一向に起き上がれそうにもない。だがそれでも確実に、身体は持ち上がっていく。もう吐血もない。
「吸血鬼イスラエル……おまえを裁くのは天じゃない。おれだ……おれたちだ!」
 サイードは震える手で、取り落とした弾丸を拾い上げ銃身へと込めようと全霊の力を手に送る。錬金心臓の刻む鼓動を強引にイズィの鼓動と同調させることで、振動として祓魔式を送り込んだ代償は大きい。人間の何倍も速く強烈に刻まれる吸血鬼の鼓動は、サイードの毛細血管を破裂させ、脳や内臓といった重要器官に重大な過負荷を与えた。イズィを捉えて密着状態をあと十秒もつづけていれば、鼓動のリズムに紛れ込ませた祓魔式を完全に送り込めていただろう。だが、腕をまわすだけの力も残されてはいなかった。
 鼓動を戻したところで、内部の深いところにダメージを受けた肉体はそう簡単に立ち直れるはずもない。それでも、サイードは気力を振り絞って両腕を動かす。
「うぅ……ぉぉおおっ!」
 憤怒の形相。血塗れた口元からは咆哮が溢れて、血に淀んだ空気を振動させる。浄銀弾を装填しおえる。構える。だが、照準が震えて定まらない。
「クッハッハハハッハァッ!」
 イズィの表情が示すのは嘲り。震える両腕で上半身を持ち上げ、次いで脚を動かそうと力を込める。その間も視線はサイードを射抜き、震える銃口を嘲笑が打ち据える。
「おおおぉあおぁああっ!」
「ファッハハハハハハァッハァ!」
 ほんの一瞬、銃の震えがとまる。照準が定まる。その瞬間、撃鉄が炸薬が叩き、爆発のエネルギーを受けた浄銀弾が銃身を駆け抜ける。螺旋状の回転を与えられた弾丸は銃口から撃ちだされて、片膝をついた吸血鬼の眉間へと肉迫する。イズィは躱せない。祓魔式により損傷した肉体の再生は、砂時計の砂二粒だけ及ばない。迫る銃弾、だがイズィはこれ以上ないほどの獰猛な笑みに唇を割って睨みつける。
 背後へ倒れこみながら首を右へいっぱいに仰け反らせる。銃弾が左の瞼を掠めて破り、角膜の表面を擦って後方へと駆け抜けていく。
 ――どさり
 イズィが絨毯に倒れると同時に、背後で肉袋が爆ぜる。血はすでに出尽くしていたのか、噴水は溢れでない。
「やったか――!?」
 倒れこむイズィに駆け寄るだけの力は、サイードには残されていない。白煙立ち昇らせる銃を取り落として、イズィを凝視する。直撃ではないが手応えはあった。掠めただけでも勝ちだ――そう気を緩めた刹那、イズィは立ち上がった。空中から糸で吊るされた人形のように、物理を嘲笑うかのごとき異様な所作――それは正しく、吸血鬼イスラエルの立居振舞いだ。
 だが無傷ではなかった。
「サイード・アッサラーム……」
 掠れ、静けさに押し込められた怒りの声が澱んだ空気を波立たせる。
「サイード・アッサラーム……おまえと、おまえの仲間はわたしの子供たちを虐殺した。そしていま、わたしの眼を奪った。この眼は、二度と月光に泣き濡れることはないだろう……」
 浄銀弾の掠めた左眼を、イズィは自らの手で抉り出していた。絨毯に落ちた深紅の眼球は、もう塵と化して消えている。落ち窪んだ眼窩と、残された血色の瞳孔がサイードを捉える。
「憶えておけ、サイード。わたしはおまえたちの同朋を子供を大地を、おまえたちの全てを、おまえたちの血で汚すだろう……」
 睥睨するイズィを、サイードは動かない身体を激情に打ち震わせて睨みつける。
「それはこちらの科白だ、イスラエル。おまえは、おれの同朋を子供を大地を蹂躙した。その償いが片目で足りると思うな!」
 微動だにせず怒りの視線をぶつけ合う二個の生命。三つの瞳。だが、深紅の隻眼は深まる闇へと溶け込んでいく。
「サイード……いまは殺さない。おまえには、わたしに歯向かったことを後悔させる死に方を与えてやる。それまでは、平和を恵んでおいてやろう……せいぜい楽しむんだナ。ハッハッハァッ」
 声だけを残して、吸血鬼イスラエルは消えていった。
 残されたのは血で汚された聖堂と、同胞の屍と、悪魔から与えられた平和だけだった。
「――ならば、」
 サイードがすり潰すように低く呟く。
「ならば、おれはこの平和を、次なる聖戦へと備えるためだけに費やそう――」
 そう言ったら、ふいに笑いがこぼれて止まらなくなった。身体じゅうに激痛が走っても、ひたすら笑いつづけた。
 高らかに謳われることのない宣誓は、まるで呪詛のようだ――笑わずにはいられなかった。

 老境にさしかかったサイードの前で、何人もの少年たち二人一組になって戦っている。彼らが振るっているのは刃を潰したナイフだが、その目は真剣そのものだ。
 サイードは重々しい声で少年たちを叱咤する。
「いいか――武器を持ったら躊躇うな。余計な感情など今のうちに捨てろ。おれもおまえたちも、次の世代が夢を叶えられる国をつくるための道具なんだということを忘れるな」
 少年たちは頷き、同胞同士で殺しあう訓練をつづけた。



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