『旅行体質』
これは、わたしと小学校のときからいまでも友人である女性のお話です。
彼女の名前は奈緒子ちゃんといって、小学生の頃は男子たちにまざって校庭をかけまわる活発な子でした。
それは天気がよくて風も心地好かったある日の昼休みのことでした。クラスのみんなで校庭に飛びだしてドッジボールをして遊んでいました。
みんなで騒ぎながら遊んでいると、時間が過ぎるのは早いもので、昼休みの終了五分前を告げる予鈴がなりました。奈緒子ちゃんは教室に向かって、まっさきに駆けだしました。校舎からいちばん近いところに立っていたから、自分がいちばんに教室に戻れると思って、なんとなく競争気分で階段を駆け上がり、廊下を走って教室のドアをがらっと開けました。
ドアを開けて、まだ人影の少ない教室に意気揚々と入ろうとしたところで、奈緒子ちゃんの足は止まりました。なんと、教室には奈緒子ちゃん以外のクラスメイト全員が着席していて、壇上には教科書をもった先生が立っていたのです。
みんな唖然とした顔で奈緒子ちゃんを見ていましたが、奈緒子ちゃんのほうこそ目を丸くしていました。だって、奈緒子ちゃんは予鈴が鳴ると同時に駆けだして、一緒に遊んでいた誰よりも早く教室に戻ったはずなのです。時間にすれば三分ほどです。途中で誰にも抜かされていないし、先生が教室にもうやってきていて授業を始めているのも変です。
わけのわからない奈緒子ちゃんに、先生が呆然とした顔のままで尋ねました。
「奈緒子ちゃん……丸一日、家にも帰らないでどこにいっていたんだい?」
それをきいて、奈緒子ちゃんは丸くしていた目をさらに大きく見開いて仰天してしまいました。先生やクラスメイトが言うには、なんと奈緒子ちゃんは昨日、昼休みが終わると同時に駆けだしたきり消えてしまって、家にも帰らず、今朝になっても発見されずでみんな心配していたのだというのです。
奈緒子ちゃんは校庭から三分で教室に戻ってきたというのに、そのあいだに二十四時間が過ぎていたのでした。
これ以降も奈緒子ちゃんは、たまに忽然と姿を消したかと思うと、またふいに戻ってくるということがありました。もとの性格が時間にルーズな子でしたが、「あの子は時間にルーズだから」では納得できないようなことが間々ありました。
なかでも特にすごいのは、中学生の修学旅行です。わたしたちの中学は修学旅行の行き先が京都で、出発の日は朝早くに新幹線の改札前で集合することになっていました。
ところが、奈緒子ちゃんはいつまで経っても姿を現しません。先生が自宅のほうに電話しても「奈緒子は朝、ちゃんと家をでました」という返答だし、奈緒子ちゃんの携帯に電話しても圏外アナウンスだしで、連絡がつかない状態でした。
わたしたちはぎりぎりまで待ちましたが、先生一名が駅にのこって、わたしたちは予定通りの新幹線で出発しました。道中は何事もなく過ぎ、これまた予定通りに京都に着いたわたしたちは、予想外な人物に出迎えられました。
――ここまで話せば、予想外ではないかもしれませんね。京都駅のホームでわたしたちを待っていたのは、奈緒子ちゃんでした。彼女は朝、ごく普通に家をでて、ごく普通に駅の構内に入った――と思ったら、そこはまったく見たことのない駅の中で、時刻を確認したら何時間も経っていて、すっかり驚きながら駅員に「ここはどこですか? いまは何月何日の何時ですか?」とタイムスリップ小説の主人公さながらのことを尋ねたのでした。
そうして奈緒子ちゃんは、駅員からかわいそうなひとを見る目で見られながらも、ここが京都駅の構内で、いまが本来の到着予定時刻の十分前だということを知り、わたしたちを迎えにきたのでした。
中学を卒業してからも奈緒子ちゃんの「旅行」はつづきました。高校では、校外をぐるっとまわって戻ってくるマラソン大会で行方不明になって、コースからおもいっきり離れた山沿いの細道で見つかりました。コース途中のチェックポイントはきちんと通過していて、時間的にバスやタクシーを使ったとしても帳尻があわないことに、小中学校での奈緒子ちゃんを知らない先生方はしきりに首を傾げていたものです。
定期考査のテスト勉強で一夜漬けしていたら、十分も経っていないのにもう朝になっていて泣いた――という話もあるのですが、これは本人いわく、冗談のつもりで言っただけなのだそうです。まったく冗談にきこえない点数でしたけれど。
大学生になってからもこの現象はつづきました。
ある晩遅くまで構内に居残ってゼミ仲間数名と課題をどうにか仕上げて提出し、じゃあみんなで帰ろうか、という話になったときのことです。
奈緒子ちゃんは「ちょっとトイレにいってくるから待ってて」と言って友人たちのそばを離れました。
友人たちが奈緒子ちゃんが廊下の角を曲がった直後、友人たちの背後から奈緒子ちゃんが「おまたせ」と手を振って現れました。みんな、ぎょっとして振り向きました。
「あんた――え、え?」
ゼミの友人は大学に入ってからの友人ばかりだったので驚いていました。ですが、奈緒子ちゃんのほうでも怪訝そうに眉を顰めます。
「どうしたの……わたし、そんなに待たせちゃった?」
奈緒子ちゃんは、みんながなにをそんなに驚いているのか、さっぱりわかっていませんでした。
「あんた、いま、あっちのトイレにいったわよね」
友人のひとりがゼミ室の扉に向かって右手の奥を指します。それから左手――つまり、奈緒子ちゃんが戻ってきたほうを指差して、
「それなのに、どうしてそっちから戻ってくるの? しかも、あんたがそこの角を曲がってから一秒たったかどうかくらいよ。そんな時間でまわりこめるわけないし――え、え?」
友人は自分で言った言葉にますます混乱して、黒目を忙しなく泳がせました。奈緒子ちゃんは、ああまたやってしまったんだな、と即座に理解して、笑いながら弁解しました。
「わたし、みんなを待たせちゃ悪いと思って大急ぎで済ませてきたの」
「でも、なんで反対側から戻ってきたの……?」
「気のせいよ、気のせい」
友人たちは納得いかないようでしたが、他に考えようもなく、歯切れの悪い顔で帰路についたのでした。
そんな奈緒子ちゃんも無事に大学を卒業して、いまでは旅行代理店のプランナーとして精力的に働いています。彼女の企画する旅行プランはいつも臨場感に溢れていて、旅行先の相談にきたお客さんからも好評だそうです。
「奈緒子っていつも、旅行先のことをまるで見てきたように話すわよね。毎日忙しそうにしているのに、一体いつ旅行にいっているの?」
同僚からそう尋ねられると、奈緒子ちゃんはこんなふうに答えて笑うのです。
「トンネルを抜けると凱旋門の真下にいて、化粧室のドアを開けると目の前にタージマハルがあるの。おかげで毎日、パスポートをもち歩いているわ」