『フェリーチェとかリュッカ、ボヌールあるいはシャースチェ』

「濃い目の紅茶にミルクをいれて。ああ、もちろん温めてからよ。そうしたら、たっぷりのクリームを浮かべるの――ね、美味しそうでしょ?」
 瑞希の言葉に、ぼくは頷く。
「うん、美味しそうだ。今度飲んでみたいな」
「いいわ。そのうち家にいらっしゃいよ。そうしたら、お腹がだぶだぶになるくらい飲ませてあげるわ」
 冗談よ、と瑞希は笑う。ぼくは微笑む。
「ねえ瑞希――」
 微笑みながら、ぼくは言う。
「瑞希――明日、きみの家にいくよ。そしたら、きみの両親に挨拶するよ。結婚すること、ちゃんと報告するよ」
 ぼくの言葉に、瑞希はやはり笑ってこたえる。
「ええ、そうして。きっと父さんも母さんも喜ぶわ」
「報告が終わったら、ミルクとクリームたっぷりの紅茶を飲ませてもらうよ」
「あら違うわ。わたしの紅茶はミルク少なめでクリームたっぷり、よ」
 瑞希はやっぱり笑った。

「父さん、母さん――ねえ聞いて。わたし、お婿さんを連れてきたのよ」
 ふたつ並んだ遺影に、瑞希は歌でも唄って聞かせるように報告する。
「ええ……お父さん、お母さん。娘さんを頂かせてもらいます。きっと幸せにします――これでいいのかな?」
 遺影のふたりは微笑んだままで、いつになく緊張してたぼくは、肩透かしを食らって愛想笑い。
「さ、これで報告はお終い。紅茶を淹れるから、そこで座って待ってて」
 瑞希はいそいそ立ち上がり、台所へと消える。
 ぼくは茶の間にとり残されて、仏壇に並んで座るお義父さんお義母さん(近日予定)と黙りこくる。
「……ええと、娘さんは素晴らしい女性ですよね」
 会話がまったくないというのも気まずいもので、ぼくは適当に話題を振ってみることにする。が、ふたりは答えない。にこにこ笑った顔が妙に恐い――なんだか睨まれているみたいで居心地が悪い。けれど、ここで逃げだすわけにもいくまい。
 ぼくは居住まいを正して、正座の背筋をぴんと伸ばす。
「お義父さんとお義母さんからしてみれば、ぼくは娘さんを誑かした男にしか見えないことでしょう。ですが、ぼくも本気なのです。娘さんをかならず幸せにしてみせます」
 ですから、どうか見守っていてください――と、深く深く頭を下げる。
「………」
 まだ、頭を下げたまま。
「………」
 まだまだ、下げたまま。
 「きみ、いいから頭を上げなさい。そして娘をよろしく頼むよ」というお許しの言葉を待つも、よく考えてみれば(みなくても)写真がしゃべるはずがない。それで顔色を窺うべく、ぼくはちろっと上目遣いにふたりを見上げる。
「――ああ、なんだ。とっくに許していただけていたのですね」
 黒い枠に収まったふたりは、仲良くにこにこ笑っていた。どうやら許してもらえたようだ。
「ありがとうございます。――ええ、もうかならず幸せにしますとも。いや、しないでか」
 大きく頷き、任せてくださいと胸をどんと叩く。強く叩きすぎて、けほけほ咳き込む。
「あら、なにを話していたのかしら? 後でわたしにも聞かせてね」
 お盆にマグカップをふたつ並べて戻ってきた瑞希が、ぼくに言う。
「いや、これはお義父さんと男同士の話だから」
 ちゃぶ台に置かれたマグカップを手にして、首を横に振るぼく。正直、こういうことを面と向かって口にするのは恥ずかしい――あ、でも、お義母さんが話してしまうかもしれないから、いっそぼくの口から言ってしまったほうが恥ずかしくないだろうか?
「なにを考え込んでいるの? そんなことより、紅茶の感想を聞きたいわ」
 瑞希が急かすので、ぼくはカップに口をつける。一口すする。
「ん――美味い」
「本当? あたし、お世辞はきらいよ」
 いや、お世辞じゃなくて本当に美味しい。
 控えめなミルクのまろやかな口当たりに、たっぷりクリームのこくが口いっぱいに広がって、対照的な紅茶の後味がすっきり締める。これ一杯で心も身体も血糖値も満足する、そんな一杯。
「美味しいよ。本当だよ。お世辞はきらいじゃないけれど、これはお世辞じゃないよ」
 惜しみない賛辞を贈ると、瑞希は満足そうに頷く。
「これは父さんと母さんのどっちも好きだった紅茶の飲み方なの。父さんは牛乳が苦手だけどクリームが好きで、母さんは紅茶なら安物だろうと構わずに飲むほど紅茶が好きだったから、このミルクティーがふたりのお気に入りなの」
 もちろん、わたしも好きよ――と自分のカップを傾ける瑞希。
「ぼくも好きだよ、この紅茶」
 と迎合するべく、ぼくも頷く。
「嘘もきらいよ、わたし」
 あっさり見抜かれたのが嬉しくて、ぼくは微笑む。
「あなたが好きなのは、ブランデーを三滴垂らしたバニラティー。もちろん、わたしも好きよ」
 微笑むぼくに、ずっと魅力的な微笑み方を教えてくれる瑞希。唇についたクリームを舐めとる仕草もセクシーだ。
「今度はこの紅茶にブランデーとバニラエッセンスを垂らしてみることにしましょうか?」
「ミルクにクリームにバニラにブランデーに……そんなにいっぱい入れたら、もう紅茶じゃないみたいだね。なにか別の名前を考えないと駄目かもよ」
 ぼくが真剣に悩めば、瑞希も真面目な顔をする。
「そうね、たしかにそうだわ。じゃあ――子供の名前を決めたら、つぎは紅茶(暫定)の名前を決めることにしましょう」
「うん、そうしよう」
 ぼくは頷き、同意する。
 けれど、子供の名前を決めるのにまだ七ヶ月もあるのだから、もっと早くに紅茶(暫定)の名前を決めてもいいかな、とも思う。そうだ、フェリーチェ (fellice)とかリュッカ(lycka)、ボヌール(Bonheur)あるいはシャースチェ(счастье)なんていうのもいいかもしれない。ともかく、お義父さんとお義母さんにも納得してもらえるいい名前を考えなくては――。
「紅茶(暫定)の名前はまだ考えちゃ駄目。あなたは凝り性だから、一度考えだすときっと八ヶ月は他のことを考えられなくなっちゃうわ。だから、子供の名前をさきに考えましょう――大丈夫、わたしも一緒に考えるから、生まれてくる頃にはちゃんといい名前が決まっているわ」
 すっかり見透かされていることが嬉しくて嬉しくて、ぼくは満面の笑顔で首をぶんぶん縦に振る。
 子供の話をするぼくと瑞希に、仏壇のふたりが目を丸くしている。ぼくはふたりへと横目を向けて、心のなかで謝る。
(お義父さんお義母さん、ごめんなさい。どうやら紅茶(暫定)の名前は決められそうにありません)
 平たいお腹を愛しげに撫でる瑞希。
 ぼくは吐き気がするほどにっこり微笑む。



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