『ホルツシュベート』

 杖で地面に円を描くと、エトヴァルトはその中心に立った。
「この円が、ぼくとスヴェンの死線だ」
「死線?」
 スヴェンと呼ばれた少年は、木剣を片手に尋ねかえした。エトヴァルトは、こほんと咳払いをして説明しだす。
「いいかい……スヴェンがぼくを倒そうとしたら、ぼくが呪文を唱える前にこの円の内側にいなくちゃだめなんだ」
 手にした杖で、描いたばかりの円周を指す。円周からエトヴァルトまで、スヴェンの足で二歩に満たない。
「この円よりも遠くからだと、スヴェンの剣が届く前にぼくの魔法が完成する。だから、ぼくの勝ち。呪文を唱える前に円の内側に来られたら――」
「先生の魔法が完成する前におれの剣が届く。だから、おれの勝ち」
 エトヴァルトの言葉をとって、スヴェンがつづけた。
「その通り。だからこの円を、魔術師と剣士の死線というんだ。もちろん、死線の大きさは一定ではない」
 魔術師がより速く魔法を完成できれば、円は小さくなる。剣士がより速く踏み込めれば、円は大きくなる。だから、円の大きさは対峙する魔術師と剣士の力差によって変化する。
「ふぅん……その円の外にいたら、剣士は絶対に魔術師に勝てないんですか?」
 エトヴァルトの説明を反芻したのち、スヴェンは首を傾げて尋ねた。
「勝てないね」
 エトヴァルトは即答してつづける。
「だから、もしスヴェンがその状況になったら、一目散に逃げだすことだね」
 逃げられればだけど、と口の端を悪戯っぽく揺らす。スヴェンはまた首を捻る。
「もし逃げられなかったら?」
「死ぬね」
 またも即答されて、スヴェンはかくっと首を垂れる。
「死ぬって、そんな……」
「それが嫌だったら、せめてどんな相手からでも逃げられるくらいには強くならないとね。ほら練習、練習」
「はぁい」
 あしらわれた気もしたが、スヴェンは手製の木剣を構えて素振りを再開する。まだ本物の剣は早いと、エトヴァルトが手ずから作った木製の剣だ。一見、長剣を模した木彫りの玩具だが、魔術を使って内部に埋めた重りを増減できるように工夫されているのだ。「スヴェンが成長すれば、この剣も成長するのさ」、スヴェンと出会って初めての誕生日にそういってプレゼントしたのだった。以来、五年以上もスヴェンと成長を共にしている。
 体側に両手持ちに構えた木剣を、体重を乗せた踏み込みとともに振り下ろす。踏み込んだ足で地を蹴り、その反動を使って上体が流れるのを抑える。そのまま残した軸足へと重心を戻し、振り抜いたのと同じ速さで元の構えまで剣を振り上げる。
 鞭になりなさい――その、エトヴァルトの教えどおりに、踏み足で生んだ力を木剣へ伝えようとするのだが、なかなか上手くいかない。「基本は極意だよ。一朝一夕でどうにかなるわけ、ないだろ」とうそぶくエトヴァルトを見返そうと、スヴェンはへとへとになるまで素振りをつづけるのだった。
 ふと、その手がとまる。
「ねえ、でもさ」
「うん?」
 杖をもてあそびながら夕食の献立を考えていたエトヴァルトは、顔を上げて少年を見る。
「もし逃げることもできなくって、戦うしかなかったらどうすればいいの?」
 難しい質問だな、とエトヴァルトは眉を寄せて思案げに杖をくるくるとまわす。
「そうだね……そのときは――」

 石造りの柱列が支える歩廊を、スヴェンは走っていた。手にした剣は、道々切り伏せてきた魔物たちの赤黒い血に塗れて、とうに切れ味をなくしている。着込んだ革鎧も、張りついた返り血ですでに地の色がわからないほどだ。
「どけぇ!」
 新たに立ち塞がった醜悪な魔物に、走る勢いと剣の重量をいっぱいに使って、遠心力のままに刀身を叩きつける。柄を握る手に、魔物の剛毛に覆われた頭皮の奥で頭蓋骨が砕けた振動が響く。
「ふん!」
 致命傷を与えた感触と同時に下肢を踏ん張り、手首を返して刀身を引き抜く。奥深くまで刃が食い込んでしまっては、容易には引き抜けなくなるからだ。血と脳漿がビロードの滝となる。
 剣を引き抜く動きにあわせて、重心の移った踏み足を支点に身体を反転させる。さっきまでの軸足を踏み足に換えて、踝、膝、腰、胸、肩、肘へと踏みしめた力を螺旋に巻き上げていく。踏み込みの反動を最後に剣へと伝えて、背後から襲いかかろうとしていた有翼の魔物へ叩き込む。頚に吸い込まれた斬撃が、砂を押し固めたような皮膚を砕き割る。その手応えが高揚とともに神経を駆け上がり、視界の中では引き抜いた剣にすがるように鮮血が迸る。
 髪が血塗れるのも厭わず、スヴェンは縦横に剣を振るう。摺り足による歩法は、鉄の延棒を血飛沫の旋風に変える。
 それからさらに何匹目かの魔物を切り捨てたのち、ようやくたどり着いた行き止まりには、スヴェンの身長の倍はあろうかという両開きの扉が待ち受けていた。魔城の最奥を守るのに相応しい、見るものを圧倒する荘厳さを具えた扉だ。守る魔物はいない。切り捨ててきたうちの一匹がそうだったのかもしれない。
 肩を揺すって息を整えるスヴェン。それを待っていたかのように、見えざる手に押されて扉が開く。
「先生……」
「久しぶりだね、スヴェン」
 開いた扉のさき、石造りの広間の中央にエトヴァルトは――魔城の主は立っていた。杖を一突きすると、魔術師の足下から環状の光が広がって、ふたたび足下へと収斂する。辛うじて両足が乗るだけの光の円に立ち、エトヴァルトは口の端を揺らす。
「これが、いまのぼくとスヴェンの死線だ」
 魔と契約した魔術師に呪文は要らない。意志の一振りがすなわち魔術として立ち現れる。多くの勇者を屠ってきた、この世に在ってはならない力だ。
「いますぐ逃げるのなら、見逃してあげても――」
「それでも」
 かつての師にして育ての親であった男の言葉を、青年はさえぎる。そして告げる。
「それでも、おれは逃げません」
「勝てないよ」
「それでも、です」
 視線が交錯する。師弟ではなく親子ではなく、魔術師と剣士として死線に相対す。剣士は剣を構える。魔術師は悠然と佇む。
「うおぉぉおお!」
 雄叫びを上げてスヴェンが駆ける。踏み破らんばかりに足裏が床を蹴り、一大の颶風のごとくエトヴァルトへと迫る。彼我の距離はあっという間に詰まる。だが魔術師の余裕は崩れない。その剣は死線に遠く及ばない。
「おぉおぉおお!」
 それだけで魔物すら射殺せそうな眼を、魔術師は涼しい顔で受け止める。ふっと眩しそうに目を細める。
「………」
「うぉおおぉぉおおぉお!」
 呟きは、死線を越えようと踏み足を叩きつける剣士の咆哮に掻き消される。刃が流線となって襲いかかっても、魔術師は構えない。呪文は必要ない。終わりにしよう――その意志でこと足りる。
 銀の弧がまさに死線を断ち割らんとした刹那、魔術師の口が動いた。死を覚悟したのは剣士。

 「もし逃げることもできなくって、戦うしかなかったらどうすればいいの?」
  難しい質問だな、とエトヴァルトは眉を寄せて思案げに杖をくるくるとまわす。
 「そうだね……そのときは――」
  エトヴァルトは悪戯をする子供のような顔をする。
 「そのときは、相手に手加減してもらいなさい」

 思い出したのは、師の肩口から胸元までを切り裂いてからだった。大きくなったな――最後の言葉が耳の奥に木霊して鳴り止まなかった。
 抱擁がスヴェンを朱に染めた。


 木彫りの剣が墓標代わりのその墓は、英雄の師が眠る墓として伝わっている。



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