『薔薇男』

 その青年はとても美しい顔立ちをしていた。
 だが、彼と初めて会った者はみんな例外なく、彼の美しい顔立ちよりも印象的な特徴に目を奪われるのだった。
「バラ――」
「はい、バラです」
 一言を搾りだすのが精一杯だった美弥子に、青年はごく自然な笑顔を浮かべてそう答えた――きっと初対面の者がみんな私と同様の反応をしてきたのだろうな、と美弥子は心のどこか隅の方でひとりごちた。
 青年の首もとには、ちょうど上着の襟首を覆うように大輪の紅いバラが咲き乱れていた。
「なんでも、ぼくが生まれてすぐに背中を怪我しちゃって、そのときに傷口から入り込んだバラの種が成長しちゃったんだそうです」
 青年は美弥子が尋ねるまえに、慣れた口調でそう語ってくれた。
「小学校に上がった年に初めて蕾が出てきて気づいた時にはもう、根が脊椎にしっかり絡みついちゃってて、手術できない状態になってたんですよ」
 青年の身体に適応したバラは、長い根っこを脊椎に絡みつかせて栄養を吸っているのだそうだ。棘の生えていない茎は短く、首から下に潜ってすぐの辺りに絡んでいるだけ。首の付根から顔をだしてすぐに花と葉を広げている。
 青年がさらに語ったところによると、このバラも棘を生やすことがあるという。バラの花や葉を切り落としたり、枯らすための薬を塗りつけたりすると、報復とばかりに茎から棘を生やして脊椎を圧迫してくるのだそうだ――小学生の頃は何度かバラを枯らそうと医者や両親が手立てを試みるたびに、棘をのばされて苦痛を味わったことを青年は教えてくれた。
 話を聞き終えて、美弥子は呟いた。
「なんだか、まるで――」
 そこまで言って、言葉を濁す。その先を口にすることは躊躇われたのだが、青年に促されてつい言ってしまう。
「まるで、冬虫夏草に寄生された虫みたいだな、って……すいません」
 美弥子にも、自分が相当に失礼なことを言っている自覚はあったので、やはり言わなければよかった――と深く頭を下げた。けれど青年は、とても爽やかに微笑んでこう言うのだった。
「以前にも同じこと、言われました。そのときは冬虫夏草が何のことか分からなくって、あとで辞典を調べたりしたんですけどね」
 青年は、少女漫画の世界から抜けだしてきたみたいに大きくて澄んだ瞳を細めて微笑んだ。

「幹也くん」
 名前を呼ばれて、首にバラの花を咲かせた少年が振り返る。
「――緒川さんか。なにか用?」
「ええ、用があるから呼んだの。当たり前でしょ」
 勝気な言葉づかいが様になっている、すらりとした長身の少女――緒川奈美が、開きっぱなしだった引き戸に背をもたれて立っていた。
 少年と少女は、旧校舎の教室にいた。もう使われることのない教室は、少年が好奇の視線から逃れることのできる数少ない場所のひとつである――その意味で、緒川奈美は招かれざる闖入者だった。
「幹也くん――わたしがどうしてあなたを探してたのか、わかってるでしょ?」
「わかってますよ。そして、緒川さんだって、ぼくが何て答えるのかわかってるんじゃないですか?」
 幹也は深く長い溜息をついて、奈美を見つめる。窓から差し込む午後の陽光が、幹也の輪郭を縁取る。比喩ではなくバラの花を背景にした美少年の、憂いを帯びた瞳――奈美は言葉を忘れて見惚れてしまう。
「……緒川さん?」
 幹也の声に、はっと我にかえった奈美は、口早に捲くし立てた。
「あなた、やっぱり素晴らしいわ。被写体として、あなたほど最高の素材は存在しない――ねえ、お願い。あなたを撮らせて」
「だから何度も言ってますけど、ぼくはこれ以上、目立ちたくないんです。もう何度も断ってますよね? お願いですから、これ以上つきまとわないでください」
 幹也はもうこれで最後とばかりに言うと、奈美の脇を通り抜けて教室を出ていこうとする。
「――嫌よ」
 奈美の腕が、幹也の歩みをさえぎった。
「わたしも何度も言ってるはずよね? あなたを撮りたい。撮らせてくれるまで、何度でも頼みつづける――って」
「……」
 ふたりの視線がぶつかる。
 さきに目を逸らしたのは奈美のほうだった。幹也の視線は、眩しすぎた。
「帰ります。そこ、どいてください」
 奈美は腕をおろして道をあける。バラの花が揺れる背中に、声だけが追いすがった。
「冬虫夏草はいつか、ただの草になる。そうなってから撮っても、遅いのよ」

「――結局、緒川さんの予想してたとおりだったんですよね」
 白昼夢を追い払うように、幹也は笑いを浮かべた。そんな彼をじっと見つめていた美弥子は、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
 長い髪が、美弥子の表情を隠す。幹也は微笑みを浮かべたまま、首をゆるりと横に振った。
「謝られるようなことじゃないですよ。事実、ぼくはもう首から上しか動かせないんですし。それに――いまにして思えば緒川さん、ぼくのことを心配してくれてたんじゃないかな、って思ってます」
 緒川奈美とはあの日を境に話すこともなくなり、卒業後は一度も会うことがなかった。奈美につきまとわれていた日々は、まるで幻のように遠くておぼろげな思い出だった――そう言って微笑む幹也に、美弥子もまた微笑みを浮かべる。
「姉さんも、同じようなこと言ってました。“ちゃんとした写真を撮れなかったのはくやしいけど、夢か幻みたいに幸せな時間だった”って」
 心臓に欠陥をもって生まれてきた奈美は、高校卒業後しばらくして帰らぬ人となっていた。
 美弥子はおだやかな表情で姉の思い出が語る。スポーツ写真しか撮らなかった奈美――そんな彼女が初めてスポーツ以外の被写体を撮りたがったのが、幹也だった。
「きっと緒川さん、ぼくの身体がいつかこうなるってこと、直感してたのかな。だから、あんなにしつこく写真を撮りたがってたんだろうね」
「ううん――」
 美弥子は、くすくすと笑みを零して首を振る。
「それはちょっと違いますよ」
「――?」
 幹也は、美弥子の笑う意味がわからずに、整った眉を寄せて困惑する。
「本当は秘密だって言われたんだけど……姉さん、この写真をずっと定期入れに挟んでたんです」
 美弥子が差し出したのは一枚の写真だった。そこには幹也が写っていた――目線やアングル、ぼやけ具合でそれが隠し撮りされたものだとわかった。
「姉さんは、ちゃんと撮った写真を持ち歩きたかったんだと思います」
「……どういう意味?」
 まだ理解しない幹也に、美弥子は呆れた顔をする。
「好きなひとの写真を持ち歩きたい――そう思うの、普通じゃないですか?」
 意外と鈍いんですね。わたし、姉さんに同情しちゃいます――そう言って、奈美はおかしそうに目を細めた。
 幹也は、
「恋愛経験、ないんだよ。悪かったね」
 ――そう言って唇を尖らせる仕草は、美弥子に「ああ、こんなにきれいな人と並んで歩きたくないの、わかるわ」と頷かせるものだった。
 すこし開いたままの窓から流れこんだ風が、大輪のバラを泳がせる。
 美しい青年はもうじき死ぬ。けれど、青年を苗床にして育ったバラは、ずっとずっと咲きつづけるのだろう。

 ああ、神さまは美しいものを死なせないようにつくったのね――ふいに美弥子はそう納得した。そして同時に、幹也でなくなったバラを見にくることはないだろう、とも感じていた。



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