『ソレの名は』

 彼女に憑いたソレは「やあ、宇宙人だよ」と名乗った。
 地球から遠くはなれた星で名うての女結婚詐欺師だったソレは、当局に追われて星系外に高飛びしたはいいけれど、船が壊れて地球に不時着。船も身体も傷ついて、治すのに時間がかかる。その間、原住民に精神だけ取り憑つかせて退屈しのぎをするのだ。
 ――ソレは長々とそう説明してくれた。
 はじめは彼女が唐突に思いついた冗談を言っているのかと思ったけれど、彼女の頭じゃ逆立ちしても解けっこない数学の超難問を五秒で完璧に解いてみせたから、ソレが彼女の作り話じゃなくて本当に別人なのだと信じるに至った。
「ようやく信じたか、愚か者め」
 ソレは彼女が絶対にしない横柄な態度でぼくを見た。
「で、宇宙人さんはどのような暇つぶしをご所望で?」
「それが問題だ。この星にはどんな娯楽がある?」
「娯楽ねえ……」
 漠然とそう言われても難しい。ぼくにとっての娯楽といえば、カメラを片手に自転車を走らせて、変な建物や面白い風景を撮り溜めることだけど、他人にはつまらないことかもしれない。すくなくとも彼女に話して聞かせたときは、
「ふぅん」
 と、これ以上ないくらい完璧に聞き流されたことを覚えている。
 ぼくは彼女の姿をしたソレを見つめて溜息を吐いた。こうして彼女のことを考えると、つい溜息が零れてしまう。彼女はだれにでも微笑みを向けるけれど、人目がないときはとても素気ない。ぼくから告白して付き合い始めて三ヶ月だけど、素気ない彼女でいる時間がどんどん長くなっている気がする。
 不意に、不快色した声がぼくを叩いた。
「いつまでそうして凝視している? わたしの身体でないとはいえ、気色悪いぞ」
「あ、ごめん」
 思わず一歩下がったぼくの背中を、ぼくと同じ学生服を乗せた自転車がベルを鳴らして掠めていった。ぼくと彼女は下校途中のはずだった。べつに手をつなぐでもお喋りするでもなく歩いていたら突然、彼女が立ち止まって「あ」と言い、その後にソレが現れたのだった。
「あ」
 彼女の口がまたその一文字を発した。
「今度はなんでしょう、宇宙人さん」
「宇宙人……?」
 怪訝そうに眉を顰めたソレに、ぼくは溜息混じりに聞き返した。
「宇宙人なんでしょ? え、違うの?」
「……わたしのバカさ加減は地球人レベルじゃない、とでも言いたいわけ?」
 不機嫌。不快。気分悪い――彼女の顔はそう言っていた。ぼくはようやく気がついた。さっきまでの尊大で横柄な雰囲気がいつの間にか消えていたことに。
「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
 ぼくはできる限りへりくだって聞いてみた。
「――ふぅん。あなたは自分から告白して付き合いだした相手の名前も忘れちゃったのね」
 最悪。最低。信じられない、消えて――彼女の目がそう言っている。かなり怖い。正直、足がぶるっと震えた。過剰なまでに愛想がいいか、眠ってるみたいに無愛想かどっちかの彼女が怒っているのを、ぼくは初めて見た。もしもこの瞬間に別れてしまわずに済んだなら、今日という日をふたりの記念日に加えよう。
 ついうっかり、そんなことを考えていたのがいけなかった。
「黙ってないで何とか言いなさい!!」
 彼女の怒号で下校途中だった下級生が「ごめんなさい、許して!」と泣き叫んで走っていった気がするのは幻覚だろうか否か――はっ、あぶない。また思考の一軒家に引き篭もってしまうところだった。
 ぼくは弁解を試みる。
「いや、その、まあ」
「……」
 蛇の目で睨まれた。蛙のぼくは脂汗がだらだら。舌の根が張りついて動かない。瞳孔が収縮して血管が広がる。心臓のポンプが大活躍して震える筋肉に酸素を運ぶ。
「ふぅん、言い訳もしないんだ」
 冷たく濡れた蛇の舌がぼくの首筋を舐めた。もうだめだ――ぼくが破局を覚悟したとき、三度目のそれが起きた。
「あ」
 小さく仰け反った彼女は、大きく息を吐いた。
「まさか精神支配に抗して消えずにいたとは……未開の部族と侮っていたぞ」
「……宇宙人?」
「それはもう先ほど話しただろうが。貴様はクンドゥアレか?」
 クンドゥアレが何かはわからなかったが、たぶん鶏みないな生物だろう。どうやら今の彼女は、彼女じゃなくてソレに戻ったようだ。いや戻るというのは間違いで、再びソレになった、と言うべきか。
「ぶつぶつうるさい。言いたいことがあるなら複式呼吸で滑舌よく発言しろ」
 怒った彼女に比べたら、ソレの言動もまだ可愛げがある気がする。いや、そんな感想よりも聞くべきことがある。
「ねえ宇宙人さん、いま精神支配って言いましたよね。しかも、“普通は元の人格が消えちゃうもの”みたいなニュアンスに聞こえたんだけど、聞き間違いですよね。ね?」
「ほぅ。クンドゥアレよりはマシな脳味噌のようだ」
 ソレは皮肉を言っても否定はしなかった。つまり彼女の非常事態だ。怒った彼女は筆舌に尽くしがたいほど恐かったけれど、やっぱり好きだ。何とかしないと。
「宇宙人さん、提案だ」
「なんだ? 特別に聞いてやろう」
「彼女が消えたら、ぼくは生きていけないから、彼女の代りにぼくに取り憑け」
「そうしたら貴様の精神が消えてしまうのだから、同じこと。意味のない提案ゆえに却下だ」
 即答された。ソレの目がぼくを嘲笑した。ムカついた。
「じゃあ言い方をかえる。彼女が消えてしまうのは嫌だから、ぼくに取り憑け」
「ふむ……」
 ソレは、今度は考える素振りをしてから鷹揚に頷いた。
「よかろう。この女の強靭な精神に免じて、望み通りにしてやろう。いくぞ」
「いきなり!?」
 言い終わるや否や目を閉じたソレに、ぼくは慌てた。覚悟を決めたといっても、これは不意打ちだ。心の準備が終わらないまま、ぎゅっと目を瞑ってソレが心の中に入ってくるのを待った。ああ、どうせ消えてしまうのならお年玉を貯金するんじゃなかった――。
「……?」
 いつまでたっても何も起きないので目を開けてみると、ソレが狼狽した顔で立ち尽くしていた。ぼくの視線に気づいたソレは、さっきまでの尊大さはどこへやら、生まれたての仔猫のような目で見つめてきた。
「あのね、あのね……戻れなくなっちゃった。えへ」
 可愛らしく小首を傾げたソレに、ぼくはソレ本人の言葉を思い出していた。“名うての女結婚詐欺師だった”という自慢話を。
 それからソレは身振り手振りに涙まで交えて、要約すれば「あたしを助けて」という趣旨の独演会をはじめ、最後はぼくの腕に縋りつくことで締めくくった。彼女が絶対にしてこない甘え方に、頬が緩むどころか引き攣った。
 彼女ひとりにさえ振り回されているというのに、これ以上厄介な特典なんていらない。のだけれど、ソレを見捨てることはできない選択だ。なぜなら、ソレが取り憑いているのは他でもない彼女なのだから。
「きみを助ける代りに、とりあえず二つ条件がある」
「何でも言って。あなたが望むならあたし、この身体を差し上げてもいいわ」
「きみの身体じゃないでしょ。条件その一、今みたいな言動は慎んで彼女の身体を大事にすること」
「勿論よ。あたしとこの子、一心同体だもん。もう一つは何?」
「きみの名前を教えてほしい。ずっと宇宙人さんやソレじゃ呼びにくいんで」
「いいわ――あたしの名前はリスィールよ」
 ソレ改めリスィールは花咲くように微笑んだ。

 リスィールが“嘘”という意味だと知ったのは、だいぶ後になってからからのことだった。



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