『via crucis』

 手を洗っていた。
 生活棟の片隅――戦闘のたびに新兵が延々と手を洗っていた水道。だが、もう新兵はいない。美穂たちが最終世代であり、生殖能力を失った人類にそれ以下の世代はいない。
 蛇口から流れっぱなしの水柱を両手と石鹸が乱して、水音を低く小さく響かせる。周りにはだれもいない。手を洗っても、染みついた血が落ちないことはもう、だれもが知っている。
 美穂だって知っている。いくら手を洗おうとも、血に塗れた両手が清められることなどないということを。

 水音が過去を想起させる。
 一年の訓練過程を終え、戦場へと送り出された。一小隊は人間三名とニューマン一体で、八小隊で一連隊として扱われる。天使群の攻勢を受けて放棄された駐屯地から、残された資材を回収するという任務だった。天使群の移動は確認されていたので、戦闘となる確率は低いと推測されていた。だからこそ、戦場の空気に慣れさせるという意味合いも兼ねて、一連隊中の半数弱が新兵で構成されたのだった。
 戦争の長期化は人員の不足を招き、新兵の訓練期間が短期化する。射撃や生存技能はいうに及ばず、精神改造が間に合わない。どれほど訓練したところで、初陣の恐怖や仲間の死というものは甘受しえるものではない。薬物投与と神経接続による高圧縮体験でも、現実の訴える感覚には敵わない。虚構はどこまで虚構、それを思い知らされるのが初陣だ。……もっとも、生きて帰ればの話だが。
 美穂を含む第百二連隊は、小規模天使群――いわゆる「はぐれ天使群」――と遭遇。半数弱が新兵であり、不意を突かれたこともあって、命令系統は半壊。体勢を立て直す間もなく応戦不可能なまでの打撃を受け、統率もなにもなく撤退開始。結局、帰還したのは若干名――二十一名中、六名だけだった。

「……」
 手を洗っていた。
 帰還した六名のうちのひとり、美穂は生活棟の片隅にいた。水道で手を洗っていた。
 血が落ちないのだ。
 八ヶ月の訓練過程を共にした友人を殺した――そのときの返り血が落ちないのだ。「天使化したものは、もう死んだのだ。敵なのだ。殺してやるのが救いだ」……毎日、朝昼晩と食事の前に唱えさせられたお題目だった。
 香織はルームメイトだった。美穂が擬似戦闘で落第点を取ったときも、香織は補習に付き合ってくれた。戦場に出れば、天使に殺される――天使化する可能性があるとは理解していた。それでも、自分の知り合いがそうなるとは想像できていなかった。自分も香織も、三文戯曲の主人公ではない。死にもすれば、天使になって仲間を食い殺すこともあるのだ。戦場にいるのならば、それが当り前なのだ。それを理解したのは、その瞬間――天使の牙が、香織の喉笛を噛み千切った瞬間だった。自分を庇った香織が、敵として銃口を向けてきた瞬間だった。
 ……覚えているのは、恐怖。喉を血に染めた香織が、光を削られた瞳で自分を振り向く。圧倒的な恐怖。異質な存在――それが、つい三秒前まで同胞だった相手だとは到底思えない。自分を庇った存在では、もうない。敵。殺せ。殺される。殺されたくない。殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ――!
 眼前に突きつけられた死への、絶対の恐怖。それに突き動かされた生存本能の爆発。八ヶ月の訓練過程において、射撃試験で何度も補習を受けた少女はいない。神経と筋肉と脳内伝達物質とが存在の垣根を越えて、自己保存という命題の元に統一される。瞬きもなく敵を見据え、空間把握。跳ね上がった銃身が、香織の虚ろな瞳を捉える。引鉄が引かれ、弾丸が吐き出される。一発、二発、三発――セミオート機構の銃口からは、指が引鉄を押えている間、連続して咆哮を轟かせる。
 紅い華が咲く。親友だったそれが爆ぜる。表情豊かだったそれに黒点が穿たれ、頭蓋骨と皮膚と血と脳と髄液が弾ける。内側から捲れるように華が咲く。けして単一の赤ではない、紅い華。かつて生きていた親友であり敵であるそれが、蛋白質とカルシウムと鉄分と……物質の集合に還元される。その過程で咲き誇る、生と死の全てを凝縮した紅い華。大輪の花弁は、次の刹那には崩れてひしゃげ、美穂の顔や手や銃に降りかかる。紅に汚れた身体と、表情を乗せるべき箇所を失った身体。その一瞬、音も匂いも温度も消える。銃を握る感触だけ――後は覚えていない。理性が掌中に取戻されたのは、治療棟のベッドの上だった。天使は歪物理圏でしか殺せない――そんな初歩的なことも忘れていた。死の恐怖に駆られてただ、銃を撃っただけだった。
 そのとき、美穂の思考は香織を認識していなかった。親友だった香織との思い出など、微塵も思い出さなかった。引鉄に掛けた指を押し留める葛藤など、存在しなかった。
 親友を躊躇いなく殺したのだ。自分が生きるために、あっさりと殺したのだ――その事実が、美穂を苛ませた。血塗れたその手が、憎かった。事実を突きつけるその紅が、憎くて苦しくて堪らなかった。

 手を洗っていた。
 生活棟の片隅、水道の前に立った美穂は、延々と手を洗っていた。染み付いた香織の血を落とそうと、必死に手を洗っていた。顔を俯けたままなのは、鏡に映った血塗れの自分から目を逸らすためだ。だが俯けば、石鹸を握りしめる手が目に入ってしまう。どれだけ洗っても落ちない紅。水に晒しすぎてふやけた手は、皮膚が破れて血を滲ませる。石鹸が痛覚を刺激したのも束の間、感覚をなくした手は赤く紅く水を染める。痛みもなにも存在しない、視覚と聴覚だけの空間に流れる紅。
「消えないよ」
 すぐ傍から不意にかけられた言葉にはっと顔をあげる。そこに立っていた青年には見覚えがあった。生き残った六名のひとりだった。もう洗い落としたのだろうが、美穂と同じく血塗れだったから、はっきりと覚えていたわけではない。ただ、美穂を捉える青年の瞳が、目を逸らすことを許さなかった。
「痛みは消えないよ」
 青年は、水流に打たれて血を滲ませる美穂の手をとる。水の流れる音が淡々と耳朶を撫でていく。視線は青年に取られた自分の手を見つめている。されるがまま、赤く染まった手は青年の口許へと持ち上げられていく。
「ずっと、痛みつづけるんだ……」
 青年の口に含まれた指。水に打たれすぎて麻痺した指先は、青年から与えられる温もりに感覚を取戻していく。滲んだ血を舌先が舐め取っていく。触れた感触に、美穂は眉をしかめる。じくじくと鈍痛が、ふやけて皮の破れた手から沸きあがってくる。取戻された痛みは――忘れることを許されない痛みは、美穂の頬に涙を伝わせた。
 この紅は、洗って落ちる汚れではないのでないのだ。ようやく思い知った。

 手を洗っていた。
 生活棟の片隅――戦闘のたびに新兵が延々と手を洗っていた水道。だが、もう新兵はいない。美穂たちが最終世代であり、生殖能力を失った人類にそれ以下の世代はいない。
 蛇口から流れっぱなしの水柱を両手と石鹸が乱して、水音を低く小さく響かせる。周りにはだれもいない。手を洗っても、染みついた血が落ちないことはもう、だれもが知っている。
 美穂だって知っている。いくら手を洗おうとも、血に塗れた両手が清められることなどないということを。

 手を洗っていた。



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