『Libera ME』

 二対の銃口が睨み合っていた。互いの落ち窪んだ鋼鉄の眼窩からは、殺人の意志を秘めた塊がいまにも撃ちだされようとしていた。
「リン……どうして?」
 美穂は、対峙する相手から目を逸らさないままに問いかける。答えを期待してのことではなく、隙を窺うためだ。視界の端――美穂とリンを結ぶ直線のなかほどに、うつ伏せに倒れたまま動かない由布が映る。物理法則すら支配するニューマンの少女が倒れるなどとは、訓練所で叩き込まれたマニュアルには存在していない事項だった。だが少女を浸す真赤な池が、廃墟と屍のなかで確かな現実味をもって美穂の視覚に焼き付いてくる。
「どうして――? 決まってんだろ、天使に用があるのは元老院のクソジジイだけじゃないってことだよ。あたしたちオーディンも、天使のサンプルを集めてんだよ」
「……オーディン」
 その名には聞き覚えがあった。戦中世代以下の若者を中心に構成される、反統合軍組織――つまりレジスタンスの通称だ。
「あんた、美穂だっけ? あたしたちが死ぬ思いで――というか、戦友を犠牲にして生け捕りにした天使が何のために使われるのか、知ってんだろ? クソジジイどもの長生きのためにだぜ? そんなことが赦されるとでもいうのか!?」
 天使捕獲計画――接触感染して天使化した雄平は、リンが殺した。計画に関わった他の小隊も、同様の犠牲を払ったのだろう。そうして捕獲した天使は、その特異性――常物理下において天使は食物連鎖の頂点に立つ。ニューマンの異能による歪物理領域でしか、天使は殺せない――を抽出解析して、対天使戦争の切り札へとする……というのは建前であり、すでに二世紀を生きている元老たちの延命研究に用いられるというは公然の秘密である。
「だからといって……どうして、由布を撃った? 由布は、リン――あなたを仲間として信頼していたのよ。だから、あんなにも無防備に背中を晒して……」
「どうして――? 決まってんだろ、そいつがニューマンだからだよ。人工栽培の胎児を天使の種で孕ませて作ったバケモノだぜ? そのバケモノ一匹作るために、あたしが何度仲間を殺してきたと思ってんだよ!」
 天使は生殖器官を持たない。爪や牙などの肉体手段で人間を殺した場合にのみ、接触感染という形で種を増殖させる。ゆえに食事はしない。捕食すなわち生殖だからだろう。ゆえに天使化した人間はもはや人間ではない。殺らなければ殺られる。
「美穂……あんただってわかるだろ? あたしたちは天使を殺すために――仲間たちと平和に暮らすために銃を手にしているはずだ。それなのに……あたしたちは、あと何回仲間を撃ち殺せば赦されるんだ?」
 リンの瞳は乾いたままだ。だが、慟哭は美穂にはっきりと伝わった。自分よりも、ひとつ年上の女性――自分よりも一年多く、戦場で生きてきた女性。自分よりも遥かに沢山の仲間を殺して生きてきたのだろう。
「……じゃあ、あなたたちオーディンはその天使をどう利用するというの? 返答によっては、銃を下ろすかもしれないわよ」
 ちら、と横に流した視線の先には、四肢を切断され、喉と翼に杭を穿たれた天使が転がっている。致命傷でも死にはしない。常物理において、人間に与えられた傷で天使が死ぬことはない――いかに非常識じみていようともだ。それを逆手にとって、歪物理下で致命傷を与えた瞬間に常物理へと戻すことで天使を生け捕りにするというのが本作戦の趣旨だった。
「どう利用すかなんて、決まってんだろ。元老の手垢が付いてない、百パーセントあたしたち印の兵器を作るんだよ。そこのバカモノみたいに油断したりしない、完璧な兵器をね――!」
「――ッ」
 言葉の最後と同時に、リンの構えていた銃口が、血の固まり始めている由布へと狙いを定める。それは美穂に対して完全な隙を見せた瞬間だった。そこで撃てば美穂の勝ちだったはずだ。だが美穂は動揺した。ニューマンの少女が撃たれる――その思考が美穂の意識から一瞬だけ時間を奪った。その一瞬後、美穂の肩からは鮮血が迸り、銃が瓦礫へと落とされていた。
 銃の咆哮が尾を引いて響き、硝煙の先でリンが薄笑いを浮かべいる。
「……死に損ないのバケモノに気を取られるなんて甘さで、よく生きてこれたもんだ」
 雄平は――たった一人生き残っていたリンの戦友は、天使に首筋を噛み切られたのと同時に、リンの手で天使諸とも頭を撃ち抜かれている。潜り抜けてきた戦場と、殺してきた仲間の数とがふたりの趨勢を決した。
 勝利を確信したリンは、銃口を突きつけるままに美穂へと近づいていく。
「本部からは天使回収のほかに、あんたの懐柔も命令されてんだけど……どうにも気が合いそうにないね」
「……その結論だけは、気が合ったわね」
 皮肉を返すだけの余力が残っていることに、美穂は自分自身で苦笑してしまう。だが銃を拾うだけの力は残っていない。左手で押えるそばから、血がどくどくと溢れていく。血と一緒に、急速に力が抜けていくのが実感として認識できる。
 美穂の眼前で立ちどまったリンは、引鉄に指を掛ける。
「惨めに命乞いしないあたり、ポイント高いわ。だから、一思いに逝かせてあげる」
 オートマチックの獣が、美穂の頭蓋骨に鋼の牙を穿たんと鈍く陽光を反射させる。それが眩しかったわけではないが、美穂は両眼をきつくを閉じる。声を漏らすまいと唇を噛んで、意識の破壊されるその瞬間を待つ。
「……え……?」
 銃声が木霊し、次いで降り注ぐ生温い液体に美穂は目を開ける。胸元に赤い噴水を咲かせたリンが、スローモーションに倒れていくところだった。左胸に穿たれた穴からごぽりごぽりと湧き上がる泉が、仰向けに倒れた身体を赤く浸していく。
「だれ、が……」
 だれが殺ったの――最後まで言葉を紡ぐことなく、美穂の意識は闇へと沈んでいった。残されたのは四つの血溜まりと、天使と呼ばれる肉塊だけだった。

 査定部執行班、通称「パラディン」。歪物理戦闘において無用の長物である長射程火器。だが人間やニューマンを暗殺するには、これほど適した武器はない。ライフルを所持するパラディンは、公式には存在しない暗殺部隊として知れ渡っている。
「わたしたちは、囮だったのね……」
 査定部が企画したオーディン構成員の炙りだし作戦――それが、今回の天使捕獲作戦の実体だった。リンと雄平は以前から査定部に目をつけられていたらしい。その尻尾を掴み、見せしめとして暗殺するため、ぎりぎりまで介入を遅らせたのだという。そのために由布の救出は遅らされた。
「由布、調子はどう?」
 病棟区画の一室、簡素な寝台に線の細い少女が横たわっている。全身を覆う包帯と点滴のチューブが痛々しい。
「うん……元気だよ。美穂も元気そうだね」
「わたしは肩を撃たれただけだったから」
 美穂の肩を貫通した弾丸は動脈を撃ち抜いてたが、迅速な処置が功を奏して、もう治療バンドを貼っているだけだ。背後から由布を撃ち抜いた弾丸が、心臓のすぐ脇をかすめていたそうだ。それでも処置が早ければ、こんなことにはならなかったはずだ。
「ごめんね、美穂。わたしが油断しちゃったせいで……今度からは、もっと頑張るから」
「……」
 いまから伝えなければならない――美穂はその役を自ら買ってでた。
「由布……もう、いいの。頑張らなくても、いいのよ」
 由布は答えない。だれでもない自分の身体だ、とうに理解していたのだろう。
「あなたはもう、歪物理圏を形成できないの。もう、戦場に戻ることはないのよ」
 瀕死の重傷を負ったニューマンは、高い確率でその異能を喪失する。異能を失った彼らは、ひ弱で臆病なだけの役立たずだ。
「それは、じゃあ……つまり……」
「……」
 答えられない。異能を失ったニューマンは、兵士達の慰み物として再利用される。だれもが知っている。
 美穂はポケットから一粒の錠剤を取りだし、由布の手に握らせる。
 由布は手渡された錠剤を美穂へと返し、無言で首を横に振る。
「全部が終わったら、迎えにきてね。待ってるから」
 震える笑顔で告げる由布を、美穂は抱きしめる。きつく、きつく。
「……痛いよ、美穂」
「ごめんね、ごめんね……赦して……赦し、て……」
 泣きじゃくる美穂を由布は強く抱きかえす。その体温を忘れまいとするように。
 赦されるべきは、だれなのだろうか――?



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