『Quo Vadis』

 大口径の銃が咆え、ついさっきまで仲間だった男の左胸を食い千切った。
「……拓哉、ごめん」
 唇を噛んだのも一瞬、美穂は身体を旋回させると同時に引鉄を引く。
「Gyooohooo!」
 顔面の右半分を失った天使が、金属が激しく擦れあうような絶叫をあげて倒れる。だが、倒れこむ天使の背後から、二体の天使が左右に飛びだす。聖者のごとき瞳と裏腹な悪鬼のごとき牙が、左右から美穂の首筋に迫る。
 美穂が反応できたのは片方だけだ。抜き撃った銃が右方の天使を肉塊に変えている間に、左方の天使が肉迫していた。もはや回避は不可能だ。
 表情を持たない天使が勝利を確信したのかはわからない。どちらにしても、美穂が自身の死を確信することはなかった。
「――やっ!」
 美穂のものでも、まして天使のものでもない裂帛の気合が大気を振るわせた。つづいて、風船の割れるような音。
 はたして、天使の牙は美穂の喉を噛み千切ることはなかった。ゆっくりと振り返った美穂の視界で、頭部を内側から破裂させた――否、破裂させられた天使が地に臥していった。
「美穂、大丈夫だった?」
 心配そうに駆け寄ってきたのは、猫のような形状の耳をした少女――由布だ。
 ニューマン――対天使用生体兵器。人類の叡智の結集たる彼らは、超常的な能力をもって生まれてくる。自身を中心に半径三十メートル内の物理法則を支配する――いわゆる超能力を有している。いま、天使の頭部を破壊したのも、由布の能力によるものだ。
「み、美穂! 血がでてるよ!」
「え……なんだ、かすり傷よ。たいしたことないわ」
 強がりでなく本当にかすり傷なのだが、由布はいまにも泣きだしそうだ。
 ニューマンはその戦闘能力とは対照的に、繊細かつ温和な性格をしている。自らの出自を嫌悪し、自殺するものすらいるほどだ。兵器としてみれば未完成といわざるをえない。しかし、もはや一刻の猶予もない人類には、ニューマンの実戦投入以外に道はなかった。そこで採られたのが、人間三人にニューマン一体を最小単位として編制することだった。
 昌樹、美穂、拓哉、そして由布は第六三連隊所属第八九小隊として第八中継基地の防衛に当っていた。戦略的価値の低い基地であり、連隊本部もまさかここに天使の大群が現れるとは思っていなかった。
 想定外の敵大群を前に連隊本部は撤退を開始したが、その手際は御世辞にも誉められたものではなかった。命令系統の混乱から、所属小隊の半数近くが置き去りにされた。見捨てられた兵士たちのほとんどが、最後まで援軍を信じて死んでいった。昌樹を隊長とする第八九小隊も、撤退行動中に天使の一群に捕捉されて応戦を余儀なくされた。
 本隊との連絡が途絶えていたことが、視野を狭窄させていたのかもしれない。天使の挑発に乗せられた拓哉が、由布の勢力圏を越えてしまう。「しまった――」と拓哉が気づいたときには、天使の爪がその胸を深々と引き裂いていた。ニューマンの勢力圏外で、人間が天使に勝つことはできない。それは食物連鎖ともいえる厳然たる事実だ。そして、天使に肉体手段で殺された人間はただちに天使化する――天使として生まれ変わる。確認されている唯一の、天使の繁殖手段である。
 拓哉が天使化して間もなく、昌樹は拓哉を撃ち殺す好機を手にする。だが昌樹はためらった。まさに引鉄を引かんとしたとき、拓哉だった存在が悲しげな表情をしてみせたのだ。
 天使は感情を持たない――昌樹がそれを思いだしたとき、好機は去っていた。拓哉の撃った銃弾が昌樹の胸を貫いた。幸運といえるのならば、肉体手段で殺されたのではないので、天使化しなかったということだろう。
 その後戦闘がどうなったのかは、既に述べている。
「由布、泣かないで」
 美穂は由布の髪を優しく撫でる。
「ここにいたら、また天使が襲ってくるかもしれない。早く移動しましょう」
 美穂の言葉に、由布のふっさりとした耳がぴくりと動く。
 ニューマンの容姿はその戦闘能力でなく、温和な性格を体現している。華奢な体躯と猫のような耳。愛らしい顔立ちと色素の薄い毛髪――その外見は、彼らが天使に比肩する超常能力の持ち主であることを忘れさせる。
 由布は大きな瞳一杯に涙をたたえて、美穂を見上げる。
「昌樹たちを置いていくの?」
 美穂は目を逸らす。
「――そうよ」
 由布の能力ならば、死体を背負って逃げることはできる。しかし再度、天使群に発見されたとき、それが命取りになるかもしれない。
 ここは戦場であり、感傷は死を招く。ニューマンはそれを甘受しえない。だからこそ、人間が決断を下さなければならないのだ。この戦争における人間の意味とは究極的なところ、この判断のためだけでしかない。
「二人は置いていく。いいわね」
 美穂は、今度は由布の目をしっかりと見ている。
「……うん、わかった」
 納得も反抗もしない――うなだれた耳はそういっていた。
「行きましょう。警戒は頼んだわよ」
 美穂は踏み出した足で感傷を断ち切る。後れて由布も歩きはじめた。
 この後、ふたりは無事に連隊本部と合流できた。だが今回の戦闘で、第六三連隊は所属する百二小隊四百八名のうち、五十小隊二百名を失った。なお公式記録には百四十名と六十体と記されている。
 戦略上、今回の戦闘は局地戦であり、拠点維持に固執する必要はなかった。その意味で、連隊本部の早々の撤退は好判断だったといえる。軍事的損失も少なくはなかったが、挽回可能の範囲内である。
 しかしこの局地戦は、他に代えがたき損失を美穂に与えた。
 美穂は昌樹を――婚約者を失った。

「美穂……まだ起きてたんだ」
 深夜、目が覚めてしまった由布は、目を開けたままの美穂に気づいた。
「うん、眠れなくて」
 答える声に力はない。
 無理もない――と由布は思う。目の前で婚約者が死んだのだ。由布は口を開きかけたが、かける言葉が見つけられずにいた。
「いいよ、無理しなくて」
「……ごめんなさい」
「どうして由布が謝るのよ。由布はなにも悪いことしてないんだから。それに――」
 耳を伏せる由布を、美穂はぎゅっと抱きしめる。
「それに愛も結婚も、はじめから無意味だったんだから」
 抱きしめられているので、由布から美穂の表情はうかがえない。けれど、その声は涸れていた。
 人間の性行為から生殖機能が失われて久しい。人工授精やクローン技術はニューマン創造以外に行き着くことはなかった。反面、延命技術は進歩をつづけ、平均寿命は現在進行形で急勾配を駆け上がっている。
 生殖機能の喪失、延命技術の進歩、天使化現象と戦争――人類は黄昏を迎えていた。愛だの恋だのはとうに枯れ果て、残されたのは恐怖を忘れるための手段だけ。
「わたしたちは愛も結婚も、本物を見たことがないんだもの。はじめから紛い物だったんだから……」
 美穂の腕に力がこもる。苦しくはないが、由布は胸がつまる気がした。けれど、本当のところは由布自身にもわからない。由布も――ニューマンもまた、祝福された生命ではないのだ。
 失ってしまったものたちと、最初から与えられなかったものたちの、どちらがより不幸だろうか――美穂の髪を撫でながら、由布はそんなことを考える。
 そして初めて、天使もまた不幸なのではないのか――と思った。
 美穂の擦れたささやきが、空を小さく震わす。
「神さま、どうして……」
 その問いに答えるものは、まだ現れない。



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