『等身大オルゴール』

 青年がピアノを弾いている。
 どこか山奥の廃倉庫で、天井近くにずらりと並ぶガラスの外れた窓から日差しがさんさんと差し込んでいる。薄っすらと舞う埃をスクリーンにして、水で溶いた山吹色のような線が、だだっ広い空間を彩る。
 広いだけのがらんとした空間の中央に、そこにだけ時間が流れているような精彩を放つグランドピアノが――そして青年がいた。
 なにもない空間で、川の流れる音のようなピアノの旋律と、日差しに照らされて揺らめく埃だけが、時間が流れているのだということを教えてくれる。
 青年は、自分がいつからここにいるのか、もう忘れていた。ずっと昔、ここで待っていろと言いつけられていたような気がするから、ピアノを弾いて待っている。けれど、誰を――あるいは何を待っているのかは忘れてしまっていた。というよりも、「待っていろ」と言われた“気がする”という程度の、記憶というのもおこがましい思い込みで待っているだけだった。
 グランドピアノは、青年が記憶しているかぎり、最初から廃工場のこの場所に置かれていた――もしかしたら捨てられていたのかもしれない。ともかく記憶が曖昧で、青年がここに留まるようになる以前からピアノがあったのか、それとも青年よりも後にこの廃工場(当時は“廃”ではなかったかもしれない)に運ばれてきたのか、本当のところはわからない。
 グランドピアノの音程はまったくずれていない。これは、青年がはっきりと言うことのできる数少ない事実だ。なぜなら、七日に一度、ふたりの少女がグランドピアノを調律しにやってくるからだった。淡い金髪と、鏡のような黒髪のふたりだ。彼女たちがどこから来て、どうしてピアノを調律しているのか、青年は知らない。尋ねてみたことはあるが、彼女たちは答えてくれなかった――というよりも、青年は彼女たちが口をきいているところを見た記憶がなかった。
 少女たちについてもうひとつ不思議なことは、青年が記憶しているかぎり、ふたりは昔から“少女”のままで変わっていないことだった。金と黒の髪をした少女ふたりは、七日ごとの早朝――青年がちょうど一曲弾き終えた時刻にやってきて、無言でピアノを調律して、また無言で帰っていく。青年はそれを無言で眺めていて、無言で見送る――七日に一度の儀式だった。

 青年はふと疑問に思うときがある。いったい自分はいつからピアノを弾いているのだろうか――と。
 もっとも古い記憶のなかで既に、青年はグランドピアノの前に座って、川のせせらぎのように途切れのない旋律を奏でていた。きっと記憶している以前にピアノを習っていたことでもあるのだろうと考えるのだが、時折、どうしても不思議でたまらなくなってしまうのだ。
 自分がピアノを弾けるのはどうしてだろう?
 この廃工場にピアノがあるのはどうしてだろう?
 待っていることの暇つぶしにピアノを弾くのか、ピアノを弾くために誰かを待っているのか?
 ――そんな、とりとめのない疑念を覚えても、その疑問の答えが出ることはない。時間という名の万年雪がいつも、青年と真実のあいだに立ち塞がっていた。
 結局、青年にできることはピアノを弾くことだけ。
 ピアノを弾いていると、すべての疑問が取るに足らないことなのだという気持ちになれる。グランドピアノの余韻たっぷりに伸びる音色に、疑念でささくれ立った感情が溶け込んでいくのを感じる。ピアノと、ピアノを弾いている自分以外のすべてが、埃の舞う空気に溶け広がって消えていくのだった。
 グランドピアノの大きな身体から零れでる旋律はいつもの曲目、いつもの曲順だ。
 青年が知っている曲目は十一曲だけで、それを順番に弾いている。もしもここに楽譜があれば、もっとたくさんの曲を覚えて弾けるのに――と思う。けれど、いま覚えている曲を完璧に弾けるのかと問われたら、胸をはって頷くことができない。指の運びも強弱の付け方も、リズムの取り方も、完璧だという自信があった。けれど、ピアノにはそれ以上に必要なことがあるんじゃないか――青年はそう考えると同時に、自分にその「それ以上のなにか」が欠けているような気がしてならかった。だから、何度も何度もおなじ曲を弾きつづければ、理解の光明が差し込むときが来るのではないかと思うのだ。
 そんなとりとめのない思索に耽りながらピアノを弾いていると、いつもの錯覚に襲われる。自分がこの倉庫でグランドピアノと一緒に生まれて、グランドピアノを弾くために生きて、グランドピアノと一緒に死んでいくのだ。自分は、天国の使者が迎えに来るのを待っているのだ――そんな錯覚だ。
 青年は酒というものを知識として知っているが、飲んだり酔ったりした記憶がない。けれど、ピアノを弾きながら錯覚に浸っているとき、「ああ、いまピアノに酔っているんだな」と感じるのだった。

 ひとつだけ秘密をばらそう。
 さきほど、七日に一度、ふたりの少女がやってきてグランドピアノを調律することを述べたが、本当はそれだけではない。七日に一度のさらに七回に一度、少女ふたりは青年の身体に触れてくるのだ。青年の服を脱がせて、二対の小さな手でむき出しの肌をさらさら撫でる。体表だけでなく、身体の内側まで掻き混ぜようとするかのような手つきで弄る。
 金髪と黒髪の少女はどちらも無言で、まるでふたり合わせてひとりの人間であるかのように淀みない手つきで青年を触る。ピアノを調律する手つきで弄る。そして、いつも決まって、青年がみずからの体内に新しい火が漲るのを意識したところで少女ふたりは離れて、帰っていくのだ。だから青年は、昂ぶった情動をぶつけるかのように、またピアノを弾きはじめるのだった。

 青年はピアノを弾きながら、自分が待っているはずの相手のことを考える。
 待っていた相手がやって来たら、自分はその相手に連れられてこの廃倉庫から出ていくのだろうか? そのとき、グランドピアノは置いておくのだろうか?  ――待っている間の暇つぶしにピアノを弾いていただけなのだから、それで構わないはずだ。暇つぶしは終わるのだから、ピアノを弾いていたことを忘れてしまうのもいいだろう。
 でも、ピアノを弾くために誰かを待っているのだとしたら? 本当は誰も待っていないし、誰も迎えに来るはずがない――それなのに、何かの手違いで誰かがやって来てしまったら、どうする? 自分はグランドピアノを置いて、ここを出ていくのだろうか?
 青年は悩む。
 自分にとってこのグランドピアノは、ピアノを弾くということは、どんな意味を持つ行為なのだろうか? 記憶をなくしてしまうほど長いあいだ待っていた相手とグランドピアノを天秤の両端にかけたとき、どちらに傾くのだろう――想像しようとしても、待っている相手がどんな人物なのかを思いうかべることができないから、想像のなかの天秤はどちらにも傾いてくれない。
 そもそも、誰も来ないのだとしたら、こんなことを考えていること自体が無意味なのだろう。青年にとってできることは、いままでそうしてきたようにピアノを弾きつづけることだけ。みずからの奏でるピアノの音色に耳を傾けているとき、青年は自分自身の意味も疑問も情動もすべてが音の溶け込んでなくなって、自分の属する世界が最良のものだと確信することができるのだった。
 青年は今日もピアノを弾いている。



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