『おいでの花壇』

 わたしたちの通っていた小学校は築百年以上の古い建物です。
 この小学校はいまも健在で、地元で就職結婚したわたしの子供も、わたしが卒業したこの小学校に通っていました。
 校舎は増改築を繰り返しているために古臭さはそれほど感じませんが、なぜか昔のままでのこされている女子トイレや、開かずの地下室、無数の南京錠で封鎖された屋上――と、いまにして思えば奇妙な場所が数多くありました。
 今日はそのうちのひとつ、わたしたちが「おいでの花壇」と呼んでいた場所のお話をしたいと思います。
 わたしたちの小学校は校舎の南側に校庭が広がっていて、北側には焼却炉や備品倉庫などのある裏庭のような空間になっていました。そこそこの広さはありましたが、校舎裏という言葉のイメージがぴったりでした。
 その校舎裏に、なぜか一畳ほどの狭い花壇があったのです。花壇というより、四方を泥塗れのレンガで囲われた地面、というべきでしょうか。もう何十年も前からずっと、なにも植えられていないまま放置されているそうです。
 その花壇は、戦争が始まる前は子供たちが毎日交代で水をやったり草むしりをして、小さいながらもきれいな花を咲かせる花壇だったそうです。
 ですが、戦争が始まると花壇を世話する子供たちはいなくなり、もともと北向きの日当たりがあまりよくないせいもあって、花壇はあっというまに荒れ果ててしまいました。戦争が終わってからも小学校が再開されるまでにはしばらく時間がかかり、そのあいだ、花壇を世話するひとは誰もいませんでした。
 小学校が再開されて子供たちがまた通ってくるようになるとようやく、荒れ放題になっている花壇もまた手入れされるようになりました。花壇を覆っていた雑草が抜かれ、柵代わりのレンガも新しくされて花の種が植えられました。
 ところが、花壇に植えられた種はいっこうに芽をだしませんでした。それどころか、あれほど生い茂っていた雑草も生えなくなったのです。原因は子供のひとりが、雑草が生えてこないようにしようと考えて大量の農薬を撒いたからだということです。当時の農薬は、ベトナム国民を悲惨な目に遭わせた枯葉剤に代表されるように、いまでは使用できない危険なものが多くありましたから、農家の息子だったその子が家から持ちだしてきた農薬も、そうした類のものだったのでしょう。
 雑草一本生えない花壇になってしまった原因が本当に農薬のせいだったのか、いまとなっては確かめようもありません。ただ、その花壇がそれ以来、誰も近寄らなくなってしまったという事実だけがあるのみです。

 それから数年か十数年かした七十年代、「校舎裏の花壇は夜にだけ花を咲かせる」という怪談が子供たちのあいだで囁かれるようになりました。それで、怖いもの知らずの小学生数名が、夜中にこっそり忍び込んで本当かどうか確かめてやろうぜ、という計画を立てたのです。
 ある晩、その子供たちはついに計画を実行して、夜中の学校に忍びこみました。昼間でもひっそりしている校舎裏は、夜だといっそう寂しくて明りもなく、家から持ってきた懐中電灯の明りだけが頼りでした。
「おい、花壇を照らせよ」
 数本の懐中電灯が花壇を探して光を飛ばし――。
「うわああ!!」
 子供たちは一斉に叫ぶと、我さきに逃げだしました。懐中電灯に照らされた、なにもないはずの花壇には、ひとの腕が一本にょきりと生えていて、子供たちを「おいで、おいで」と手招きするように手の平を揺らしていたのでした。
 叫びながら脇目もふらずに走って校門をでたところでようやく落ち着いた子供たちは、肩をぜえはあ上下させながら、「見たか?」「見た、腕だった」「しかも動いてた」とお互いにいま見た腕の話していました。するとひとりが、ぽつりと言います。
「おい、ひとり足りなくないか?」
 慌てて互いを懐中電灯で照らして確認した子供たちは全員、顔色を真っ青にしました。一緒に花壇を見にいったひとりが、いないのです。
「あいつ、きっとひとりで逃げたんだよ。ほら、自分勝手なやつだし」
 子供たちは無理やり納得して、それぞれの家に逃げ帰りました。もう一度さっきの花壇に戻って探そうと言う子供はいませんでした。
 いなくなった少年は翌日、遺体で見つかりました。彼は件の花壇に首まで埋まった状態で、頭をぱっくり割られて死んでいました。頭部の内容物を撒き散らせた様子は、まるで咲き誇る大輪の花のようだったそうです。
 それだけも凄惨な死体でしたが、さらに花壇から掘りだされた彼の右腕は、肩の付根から引き千切られたみたいに消えていたのです。
 小学校の敷地内で生徒が酷い死体となって見つかったことは、当時の新聞にも載りました。小学校には連日、警察とマスコミがやってきて、地域一帯は「凶悪犯が潜んでいるかもしれない」と大騒ぎになり、小学校だけでなく近くの中学校などもしばらく休校になって子供たちの外出が禁止されていたということです。
 それだけの騒ぎになったにも関わらず、犯人は見つかりませんでした。消えた右腕も行方知れずのままで事件はやがて風化していき、遠い過去にあった出来事として人々の記憶から忘れ去れてしまいました。
 ただしその頃から、校舎裏の花壇にまつわる怪談が新しくなって囁かれるようになりました。

 ――日が暮れてから「おいでの花壇」に近づいてはいけない。さもなくば、花壇に生えた”二本の腕”に捕まって、花にされてしまうぞ。

 そして、今日からはこの怪談がまたちょっと変わって、”二本の腕”から”三本の腕”になります。今朝、花壇に埋まった子供の死体が見つかりました。「おいでの花壇」には近づくなとあれほど言ったのに理解できない馬鹿な子供が、親の目を盗んで夜に家を脱けだして死ににいくなんて、馬鹿だ。
 でも、いちばんの馬鹿は、子供が家を脱けだすのにも気づかなかった親だ。あのとき、気のせいだと思わずにあの子の部屋を確かめにいっていたら――わたしは親失格の大馬鹿者です。
 なんだか変な話になってしまいましたが、わたしの話はこれで終わりです。
 わたしはこれから小学校に忍びこんで、おいでの花壇を掘り返すつもりです。もう日はとっぷり暮れていて、おいでおいでと手招く腕が三本、待ちかまえていることでしょう。手招く腕のうち一本は、あの子の腕です。警察が昼間に花壇を掘り返しても見つけることはできませんでしたが、夜にならば奪い返せるはずです。
 最後まできいてくださって、ありがとうございました。それでは、いってまいります。

 ――日が暮れてから「おいでの花壇」に近づいてはいけない。さもなくば、花壇に生えた”四本の腕”に捕まって、花にされてしまうぞ。



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