『雑影都市』

 その街には、積もらない雪が降りつづけているのだった。

 寒くなく、温かくもなく。
 白だったり、また黒だったり。けして灰色ではなく。
 ちらちらと、
 しんしんと、
 こんこんと、
 降りつづいている。
 四月に降る雪くらいに、どうでもよくて、とりとめもなくて意味もなく。
 地に落ちる前に、まるで初めから嘘だったかのように色も匂いもなく消えてしまうくせに、不確かな存在感をもって網膜にこびり付く。
 白く降り積もって景色を埋め尽くすことも、黒く汚れて溶けていくこともなく。そのくせ、この街のだれもが雪の降らない景色を想像できないような、首を締める真綿のような、無味無臭の圧迫感でこの街を支配しているのだ。
 だれも、雪について疑問をもったりしない。
 だれも、雪のない景色をしらないから。
 だれも、雪の色を知らない。
 だれも、雪を知らない。
 だれも、雪に気づかない――?


「この子の親を探しています。どなたか、お心当たりのある方、いらっしゃいませんか?」
 幼い少年は両腕に仔猫をかかえて、通りを行き交う大人たちに声をかけては、追い払われていた。
 立派な外套に身にまとった大人たちは、少年の胸で眠る仔猫のみすぼらしさに眉をしかめるのだった。
 ――やがて少年は、大人たちに頼るのあきらめる。
「だれも、ぼくの頼みなんて聞いてくれないんだ……。でも大丈夫、きみのパパとママは、ぼくがきっと見つけてあげるからね」
 通りの端から、どうせ衣服に触れる前に消えてしまう雪を避けるために高い外套をあつらえた大人たちを、たっぷりの諦観と嫌悪、それにわずかな羨望を滲ませた瞳で見送っていた。
 少年は歩きだす。抱きかかえられた仔猫は、されるがままに従っている。
 歩きながら、少年は仔猫へ話しかける。
「きみはどこから来たんだい? ここじゃ、見ない顔だよね」
「………」
「パパとママと逸れたの? 独りぼっちで淋しかった? でももう大丈夫、ぼくが一緒に探してあげるから」
「………」
 うんともすんとも、にゃあとも鳴かない。
 それでも少年は楽しそう。話しかけるべき対象がいるということが、その頬を緩ませるのだろうか。
「でも、テガカリが少ないなぁ。どっちの方向に歩いたらいいのかなぁ?」
 道なりに歩けば、視線のさきは突当たり。右か左か、どちらかにしか進めない。まっすぐは歩けない。
「ねえ、きみはどっちから来たんだい?」
「………」
 迷ったときに道を尋ねる相手としては、仔猫はいささか不適切。
 少年は溜息まじりに首をすくめる。ついでに片方の眉だけ持ち上げてみようとしたが、これは失敗。
 大人は好きではないけれど、大人っぽいのには憧れるのだ。
「この街には案内板が必要だよね。そしたらきっと、『仔猫とパパとママのお家』って書いてあるから迷わないのに」
「やあ、どうしたんだい。こんなところで?」
 ――当然、仔猫の声ではない。それは背後から降ってきた。
 少年が身体ごとふり返って見上げると、そこには大人が立っていた。高そうな外套を身に着けてはいたが、表情はにこにこと和やかだ。
 だから少年は、ちょっとだけ気をゆるした。
「あのね、この子のお家を探してるの。きっと、パパとママが待ってるから」
 その言葉と胸に抱かれた仔猫とに、大人は「ああ……」と眉をしかめた。
 少年が、すこしでも期待してしまった自分自身に落胆していると、大人は目頭を押えていた。泣いているらしい。
「ああ、可哀想に。きっと今ごろ、パパとママも悲しんでいるだろうに」
 外套のポケットからハンカチを取りだして涙を拭う。
 少年はうれしかった。自分の話を信じてくれたことがうれしかった。だけど泣くのはわからなかった。
「悲しんでるんじゃないよ、待ってるんだよ。パパとママと子供は一緒にいれるんだから、悲しくないよ」
「……ああ、本当に可哀相に。可哀相に、可哀相に」
 じーんっ、とハンカチで威勢よく鼻をかむと、それをポケットにしまって大人は赤い目許を手でこする。
 そして、すっと指差したのは突当たり。その右のほう。
「あっちへお行きなさい。きっと、パパとママが待っているよ」
「え、本当?」
「本当だとも、わたしが嘘を吐くはずがない。なぜって、嘘を吐かないという言葉がもう嘘かもしれないのだから、嘘が嘘だとはかぎらないじゃないか。なあ、そうだろう?」
「ええと……よく、わからないや」
「素直にわからないといえるのは大人の証だ。だからわたしも敢えて、わからないっ、と声を大にしようじゃないか」
「わからないの?」
「わからないさ」
「ふぅん……まあいいや。ぼく、もう行くね」
「ああ、そうすればいい」
 大人はハンカチを振って少年と仔猫を見送る。ハンカチにべったり付いた鼻水が飛んでくる前に、少年は大人から離れていった。
 やがて突当たりに差し掛かる。
 教えられたとおり、少年は右の道へとすすむ。
「よかったね、きっともうすぐパパとママに逢えるんだよ。うれしい?」
「………」
 やはり無言。
「そっかぁ。やっぱりそうだよね、うれしいよね」
 少年はひとりでうなずく。
 会話というものはどうやら、自己完結していれば、だれも傷ついたりしないようだ。
 そしてまた突当たり。今度は、左右にも道がない。
 つまり袋小路。行き止まり。ここでおわり。
「あ、扉」
 道のおわりにはいつも、なにかが待っている。
 それは青い鳥だとか、我が家だとか、分厚い鉄板を二枚並べたような扉だったりだとかだ。
 少年と仔猫を待っていたのは、その三番目だった。
「ここがきみのお家なの……?」
 にゃぁ――と、こたえるはずもなく。
 ドンドンッ、と扉を叩くと、ギィィと外側に開きはじめる。
 少年は一歩あとずさる。
「あ、お出迎えのひとですね。お宅の子を連れてきてあげました」
 扉の向こうからでてきた白い防具服の大人たちに、少年は仔猫を両手で掲げてみせる。
「………」
 大人たちが無言なのはきっと、密閉型のヘルメットをしていて、しゃべれないからだろう。
 互いにジェスチャーすると、ふたりの大人が、手袋をはめた手で少年の腕を両側から抱きかかえる。
 地に落とされても鳴き声ひとつあげない仔猫を、もうひとりが拾いあげる。
「わあ、うれしいなぁ。こんな大げさな歓迎、ぼく、初めてです。これからパーティーをしてくれるんですね。うれしいなぁ」
 少年はにこにこと、生まれてからずっとそうしてきたように、こたえる意思のない対象を相手に会話をつづけるのだった。
 そうして連行されたさきで、ボロ布をまとった孤児と仔猫の腐乱死体は焼却された。
 幸いにも悲鳴がきこえなかったのは、酸素が燃え尽きて真空状態になっていたから。
 ちなみに猫は、やっぱり鳴かなかった。


 降り積もらない雪は、もしかしたら雑影――ノイズだったのかもしれない。
 擦りきれる直前で、それを拒否してしまった可哀相な映画。忘れされることもなく、思いだされることもなく、ただ雑影が降りつづけている。
 初めから無かったようで、ずっと在る――そんな、観るに堪えない、くだらぬ映画。

 すべてはもう、憶測でしか語れない。
 憶測を語ることは罪でも、考えることは赦されるだろうか?
 ――が、ぼくは大人だから、わからない。
 そしてもう目を閉じることにするから、わからなくても良いのだ。

 この街には、積もらない雪が降りつづけているのだった。



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