『ナイトメアシンドローム』

 「悪夢を見る」という現象が世界規模の問題として表面化したのはちょうど、勃発したばかりの日朝戦争にアメリカが軍事介入すると公式発表した直前だった。
 マスコミはその現象を「ナイトメアシンドローム」と名付けた。
 ナイトメアシンドロームに罹った患者は、眠ってから数分と経たずに悪夢を見て飛び起きるようになる――たとえ、どれほど眠くて動けないほど衰弱していようとも、だ。
 そんな奇怪な現象が、年齢、性別、職業、生活習慣……一切を問わずに世界規模で蔓延したものだから、その混乱は大変なものだった。
 一九九三年にアメリカ睡眠障害国家諮問委員会がまとめた報告によれば、アメリカ国内における睡眠障害や睡眠不足を要因とする経済損失は年間五兆円を超えたとされている。その当時から二十余年を数えたいま、同委員会の中間報告によれば、ナイトメアシンドローム含む睡眠障害による経済損失は年間でゆうに十兆円を上まわるだろうと予想されている――なお、この予想にはアメリカが日朝戦争に参戦した場合を考慮に入れていない。戦争を想定にいれて試算した場合、損失が非現実的な額に達したからだった。
 これらの報告を受けるに至って、世界の主導者を僭称する者たちの清貧なまでに乏しい想像力でも、これだけは理解することができた。
 戦争などしている場合ではない、と。

 ナイトメアシンドロームの病理解明は、しかし困難を極めた。
 そもそも、「なぜ夢を見るのか?」ということは、いま現在においても解明されていない。
 PGO波と呼ばれる脳波が、視覚領や記憶領を刺激することで映像が想起される――というあたりまでは解明されていても、「じゃあ、そのPGO波はどうして起きるのか?」という点になると諸説紛々あるばかりで、そのどれもが実証の段階にまで達していなかった。
 脳機能解析学、脳神経学、脳情報分子学、大脳生理学、睡眠学、遺伝子の専門家……世界中から集められた権威たちは、脳波そのものを抑制してしまう手法を考えだした。PGO波発生のメカニズムが解明できないのなら、PGO波を強引に抑えこんでしまえ――というわけだ。その方法として考えだされたのは、PGO波発生の起点となる脳橋背側部に「抑制プラグ」と呼ばれる特殊な装置を埋め込むことだった。このプラグは、抑制系の脳内伝達物質が一定以上の比率で分泌されている状態――つまり、眠っていると推測できる状態において、PGO波と対称な波形を発生させて打ち消すというものだった。
 理論上、抑制プラグを埋め込んだ者には「夢を引き起こす脳波」が発生されないはずだった。しかし実際のところ、抑制プラグ埋設法は期待されたほどの成果をあげずじまいだった。その原因はまず第一に、プラグ埋設には極めて難しい手術が必要だったことが挙げられる。脳波を相殺するためにはプラグ固定の位置が肝心だったが、それができるほどの技術を持った脳外科医の人数は、ナイトメアシンドローム感染速度に比して圧倒的に少なかった。
 大金を積まなければ受けられない手術のうえに成功率が低いときたのでは、有効な対策であるはずがなかった。
 プラグ埋設法に代って注目を浴びたのが、無眠者と呼ばれる者たちの存在だった。
 全世界でたった四人しか確認されていない「無眠者」とは、交通事故に遭ったり大欠伸をして顎を外したりで頭部に強い衝撃を受け、突如として睡眠を必要としない身体になった者たちのことだ。
 なぜ眠らなくとも平気なのかは、これまでも研究対象として興味を集めていた。しかし、医師の倫理的観念が邪魔をして徹底的な研究がなされたことはなかった――それが、結果として無眠者四人中の三人が死亡するまでに容赦ない人体実験がなされたという事実は、当時の世界にとってナイトメアシンドロームが如何に恐怖だったかを物語っている。
 詳しくは後述するが、ナイトメアシンドロームという緩慢な危機は、人権というものの在り様をほんの少しだけ利己的に――より人間的に定義しなおす契機でもあった。

 人類世界は第二次世界大戦という危機を経て、国や文化を超えた「人権」という概念を得た。それは、国際連盟による世界人権宣言や国際人権規約として形になった。また、ナチス統制下で行われた人体実験の悪夢を戒めるヘルシンキ宣言を、世界医師会が採択している。
 次いでナイトメアシンドロームという世界的危機の経験は、「犠牲」という概念を明文化させたのだった。その際たるものが、国際人権規約とヘルシンキ宣言に「最大多数の利益になると考えることを行う」という要旨が追加されたことである。すなわち、大多数を救済するために少数が犠牲となることはやむを得ない――究極的危機に瀕して人体実験は容認される、という内容だった。
 人権法に関するこの歴史的な転換は、国際連盟によるミラノ宣言を受けての修正であるが、同宣言の採択には多くの反対や抗議があった。それら反対意見を強引に押し退けてまでミラノ宣言が採択された背景には、「ナイトメアシンドロームの最大被害国がアメリカだった」という事実が指摘されている。

 三人の無眠者をはじめとした犠牲の末、無眠者の脳内には、睡眠物質の持つ入眠作用を阻害する未知の物質が分泌されていることが判明した。この未知の物質は「無眠物質」と名付けられ、その生成メカニズム解明が急がれた――と歴史の教科書には書かれているが、これは「犠牲が厭われなかった」ことの婉曲的表現であることを忘れてはならない。
 仲間がつぎつぎに睡眠を奪われて衰弱死していくという恐怖のなか、生き残った医師たちはついに、無眠物質生成の秘密が時計遺伝子の異常にあったことを見つける。その後は異常箇所の特定、遺伝子組換え方法、電流刺激による無眠物質生成機能の活性化――等々が次々と確立されていき、人類は眠らないことでナイトメアシンドロームを克服することに成功したのである。

 睡眠の消失という生命的な大転換は、この三つを大きく変容させた。すなわち人権、経済、戦争だ。
 生活スタイルから睡眠が消えたことで、一日に十二から二十時間働きつづける労働モデルが一般化され、併せて二十四時間営業の店が爆発的に増加――総じて、経済サイクルの新陳代謝が加速されたと言える。
 また、眠らない兵士が戦争の仕方を変えないはずがなかった。経済が加速するのならば、戦争が加速するのもまた摂理だろう。
 人権については、アメリカにおいてミラノ宣言を根拠に、通称「人材リサイクル法」が制定される。これによって受刑者の人体実験転用が認められ、その研究成果として、眠らない・疲れない・逆らわない、という理想的な兵士が大量生産されることになる。
 世界世論は当然ながらアメリカを非難したが、やることといえば、アメリカに対抗するべく人材リサイクル法と同様の法律を制定して人体実験に励んだことくらいである。結局はアメリカに追従するというわけだ。
 余談ながら、人材リサイクル法制定によって世界規模で犯罪率が激減したことは、巧笑を誘われずにはいられない事実である。

 人類はナイトメアシンドロームという世界的危機を乗り越えて新たなステージへと到達したが、その契機となったナイトメアシンドロームの病理については謎のままである。



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