『ミッドナイト・リーディング』

「図書館へ行ってきます。まだ、だれも読んだことのない本を探しに」
 ――その少女は、はっきりとそう言った。

 図書館は広大だ。その果ては霞がかって見えないし、入り組んだ書架はミノス島の迷宮よりも複雑だと言われている(伝聞形なのは、だれも生還者がいないからだ)。
「ようこそ、図書館へ。どんな本をお探しかしら、お嬢さん?」
 司書さんの言葉に、少女はやはりはっきりと、
「まだ、だれも読んだことのない本を探してるの」
「まあ……それは大変ね。だれも読んだことのない本は、まだ地図のない区画の本棚にあるのだけど、まだだれも生きて帰ってきたひとがいないのよ」
 心配そうな司書さんに少女はにっこり笑う。
「じゃあ、わたしが生還者第一号になるのね」
「……行くというのなら、わたしにそれを止める権限はないわ。でもひとつだけ忠告――キツツキの言葉は信じちゃだめよ。キツツキは嘘つきのゴロツキなんですから」
「わかったわ。キツツキの言葉は信じない」
「ああ、そうそう……アライグマの言葉は信じても大丈夫よ。昔はキツツキとグルだったけど、いまはもう手を洗っているはずだから」
「はぁい」
 少女は元気よく返事して、図書館の奥へと歩きだす(走らないのは、「館内はお静かに」だから)。最初のほうは矢印の案内があって迷わず、ずんずん歩いていく。するとやがて、『この先、危険』『まだ、だれも読んだことのない本は、この先』というふたつの立て札。
 立て札のさきには、森が広がっていた――いや、よく見ると森じゃない。草ぼうぼうの地面からは生えているのは木じゃなくて、本棚だ。でも本は入っていない。本の代わりに兎や鳥の巣がびっしりと並んでいる。……いや、もっとよく見ると、兎や鳥の巣は文字の書かれた紙を寄せ集めてできていた。
「……兎さん、だれも読んだことのない本を破いて巣にしちゃったのね」
 少女はぶっと唇を尖らせる。すると、一羽の兎がぴんと耳を立てて起き上がる。
「悪いのかね? だれも読んでいない本を破いて巣をつくることが、悪いのかね?」
 どうやら、昼寝を邪魔されて機嫌が悪いみたい。
「ん……良くはないとおもうわ」
 少女が言うと、
「はんっ! だれも読んだことがないってことは、だれにとっても読む価値のない本じゃないか。だったら、わたしの巣として有効活用してやるのが正しいことだ。そうだろ、なあそうだろ」
「いいえ、それは違うわ。だれも読んだことがないってことは、だれかが読むかもしれないってことよ。だって、あたしは読みたかったもの」
 少女の反論に、兎は長い耳をばたばた振って苛立ちを表現。
「はんっ! だったら読むがいいさ。もっとも、わたしが細かく噛み砕いてやってから、読めないだろうがね」
「……ほかを探すわ」
 少女は溜息をこぼすと、「兎騒がせな!」と耳をばたつかせる兎をおいて歩きだす。
 どんどん奥へ進んでいくと、こんこんこん、こんこんこん、と乾いたリズム。
「なにかしら?」
 音のするほうを探してみると、一羽のキツツキが本棚に嘴を打ちつけていた。
「おや、可愛らしいお嬢ちゃん。ひとりでお散歩かい?」
 少女に気づいたキツツキは、突付くのをやめて声をかけてくる。
「いいえ、探し物よ。わたし、まだだれも読んだことのない本を探しているの」
「ああ、それだったら見たことがあるよ。そこの道をまっすぐ歩いたさきに、そんな本があったはずだよ」
「あら本当? ありがとうキツツキさん」
 少女は深々とお辞儀して、キツツキの教えてくれた道を歩きだす。黄緑色の煉瓦道を歩いていくと、だんだんと霧が立ち込めてきて前がよく見えなくなる。それでも明るい黄緑をたよりに、少女はどんどん歩く。すると、なにか平べったいものが霧の向こうに浮かんで見えた。
 立て札だった。
 『この先、崖。転落注意』
 という立て札をアライグマが手にして立っていた。でも、黄緑色の道はずっとまっすぐつづいている。
「――あ、そうだった」
 少女はようやく、司書さんの言っていたことを思いだす。
「キツツキは嘘つきのゴロツキだったのよね。でもアライグマさんは手を洗ったのだから信じてもいいんだったのよね。あれ……でも、だったらどの道を歩けばいいのかしら?」
 少女が小首を傾げると、アライグマは洗いたての真っ白な手で方向を示す。そのさきには緑色の羽だとか充電式ロケットだとかが準備されていた。これで崖を飛び越えろ、ということらしい。
「ありがとう、アライグマさ――ぁ」
 お礼を言って頭を下げた拍子に、少女はアライグマの足が真っ黒に汚れているのに気づく。
「……手は洗ってけど、足を洗ってはいないのね」
 あぶないあぶない。もうすこしで騙されるところだったわ――少女はまた、黄緑色の道をまっすぐに歩きだす。アライグマの横を通り過ぎるとき、ちっ、という舌打ちが聞こえてきた。
 黄緑色の道を歩いていくと、やがて霧が晴れる。道は崖と崖のあいだに架かる橋になっていた。崖下を見下ろすと、折れた緑色の羽やら壊れた充電式ロケットやらが落ちていた。
 対岸に着くと、道はそこで途切れていた。本棚の森はずっと続いているのだが、どの本棚にも本はなくて動物の巣箱になってしまっている。
「困ったわ。まだ、だれも読んだことのない本はどこにあるのかしら……」
 はぁ、と溜息がこぼれる。だけどここまで来たのだから、と少女はもうすこし探してみることにする。本当はもう眠くて眠くてたまらなかったのだけど、欠伸を噛み殺して森を歩いてまわる。出掛けにマーマレード入りの紅茶じゃなくて苦いコーヒーを飲んでくればよかったわ、と後悔してみるけれど、苦いのは苦手。それに紅茶は美味しかったし。温度も丁度良くて、ママの紅茶は世界一だわ。
「ママ……そろそろ心配してるかしら? 夕方には帰るって言っておいたけれど、いま何時? あら、もう夜明け?」
 図書館だと時間がよくわからない。でも、本棚で眠っていた子猫が母猫にミルクをねだっているから、もう朝みたい。わたしのママも心配しているかもね。
「でも大丈夫。夜明けになっても帰らなかったら、いちばん高い声でわたしの名前を呼んで――って言ってあるから」
 だから、わたしは目を閉じて耳を澄ます。
「………」
 ……なにも聞こえない。
「………」
 ……なにも聞こえな――ぁ。

 しおりー、しおりー。

 聞こえてきた声をたよりに歩いていくと、ぼうぼうの草に隠された小さな本棚がひとつ。そのなかには、一冊の本――まだ、だれも読んだことのない本。
「これでようやく眠れるわ」
 しおりは、だれも読んだことのない本の間に挟まって、ぐっすり眠りましたとさ。

※本作品は、坂本真綾さんのアルバムCD「ニコパチ」収録の「夜明けのオクターブ(作詞/一倉宏)」の二次創作です。



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