『月魚』

「わたし、もう帰らないと」
 そうして春海は月を見上げる。
 満月を一晩過ぎた、どこか不安そうで貪欲そうな月を見上げる。
「だめだよ、帰さない。春海はもう、ぼくのモノなんだから」
 夏樹は手にした鎖を引寄せる。
 窓枠にあごを乗せていた春海は、首輪から伸びた鉄鎖にひかれて深緋色の絨毯を這いずる。その両手首は後ろ手に鉄枷を嵌められ、その両足首はそれぞれに鉄球をひきずり、石畳に敷かれた絨毯の長い毛足が赤錆びた音を包み込む。照明は夏樹が階下から持ってきた蜀台と、窓――石壁の一部を四角に切り取っただけのもの――から差し込む月明かりだけ。ゆれうごく薄い光は、石造りの室内に一層の寂寥を添える。
 夏樹は木製の粗末な寝台に腰を下ろして、春海を見つめる。
 やがて春海は、頬と膝とで夏樹の足許まで這いずってくる。月光を透かす華奢な裸身は、錆の浮いた拘束具を痛々しいまでに実感させる。
 窓から寝台までたった数歩の距離を這っただけで、春海の肌は上気する。足許から夏樹を見上げれば、胸にかかる黒髪が流れ落ちて赤味の差した頬が露わになる。薄く開かれた唇が、此処でない何処かを見つめる瞳が、夏樹を捉える――否、夏樹が囚われる。
 春海の一挙手一投足に、夏樹の五感は支配される。思い出したように擦れあう鎖のささやきが、規則正しい律動でもって零れる吐息が、耳朶をくすぐる。陽光を知らない白磁の皮膚はほのかに染まり、烏の濡れ羽のごとき光沢を帯びた黒髪が瞳を縛って放さない。窓から流れ込む夜気に紛れて、ねっとりした汗が匂いたっては鼻腔を満たし。ひりついた喉は吻合の味を思いだす。手に触れた頬は温く、極め細やかなサテンのように。
「お願い、もう帰らないといけないの」
 懇願の眼差しで見つめ、頬を撫でる夏樹の手へと舌を這わせる。
 指の一本一本にしゃぶりつく春海を、黙って見下ろす夏樹。薄目の唇から時折覗くぬめった舌先が指に絡みつき、撫でるように扱くように、唾液腺から分泌される潤滑油を塗し込んでいく。
「ああ……春海は、奉仕すれば帰してもらえると思っているんだね。でも駄目だよ」
 溜息を交えて告げられる言葉に、春海は反応を返さない。ただ一心に手指への奉仕をつづけている。
 夏樹は微かな苦笑を浮かべる。
「春海、きみは売られたんだ。帰れる場所なんて、もう何処にもないんだよ」
 むしろ慈しむような柔らかな口調も、春海に耳にはまるで入らない。否定するでもなく拒否するでもなく、ただ無心に奉仕をつづけるだけ。やがて五指のすべてを唾液で光らせれば、上目遣いに夏樹を見つめて褒美をねだる。つまりは、帰してくれ、と。だから夏樹は、駄目だ、と首を振る。
「早く帰らないと、父さまも母さまも心配するの」
「ふたりとも死んでるよ。潮は首吊りで、葉子は入水で」
「兄さまがきっと心配してるわ」
「それはないね。きみに兄などいないのだから」
「いるわ!」
 初めて、春海が声を荒げる。
「へえ。だったら、兄さんはなんて名前だ?」
「名前……」
 口ごもる春海と、憐れむような夏樹。
 俯き、唇を噛んで必死に記憶を手繰る春海を、夏見は黙って見守る。春海はやがて、思いつめた面差しで夏樹を見上げる。
「名前……わからない。わからないけれど、きっと待ってるわ」
 訴える瞳が、悔恨を滲ませる瞳と絡みあう。
 夏見は目を瞑り、ひとつ息を吸って目を開く。そして口を開く。
「駄目だ。帰すことはできない」
「なぜ……なんで? 兄さまが待ってるわ。帰らな――」
「きみに兄などいない、だから駄目だ!」
 怒声に刺された春海は、びくんと硬直して言葉を失う。とうに紅潮の退いた肌は、月光に静脈を透かして蒼白く輝き。
「……わたし、帰れないの?」
「そうだ。帰れない」
「帰れないのね」
「帰れないんだ」
 何遍となく繰り返した言葉。


 これは、月と魚のおはなし。

「ねえ、お月さま?」
「なんだい、不器用な魚」
「わたし、溺れるのにはもう飽きたわ」
「飽きたから、どうしたいんだい?」
「飽きたから、水から上がりたいの。もう上がっていい?」
「ああ、いいとも。きみが好きなときに、上がればいいさ」
「どこまで行っても水のなかよ。どこから上がればいいの?」
「ぼくが出口だよ」
「お月さまが、出口なの?」
「そうだよ。ぼくのところまで泳いでくればいい」
「わたし、喰べられちゃうの?」
「そうだよ」
「それは、嫌だな……」
「では、永遠に溺れているといい」
「それも嫌」
「じゃあ、喰べられるかい?」
「それも……嫌」
「どちらかひとつ、選ばなきゃ」
「……そもそも選びようがないわ。だってわたしは、不器用な魚。溺れることしかできないもの」
「そうだな。選びようがない」
「でも、溺れてるのにはもう飽きたのよ」
「そういわれても、どうしようもないね。なぜって、きみは“不器用な魚”という存在なんだから。もしも泳げるとしたら、きみはもう“不器用な魚”ではなくなってしまうのだから」
「……不器用なわたしは、みんながあなたのお口に飲み込まれていくのを、見送るしかできないのね」
「そうだよ。でも、それでいいじゃないか」
「あら、どうして? わたしは寂しいわ」
「ぼくと二人っきりでは、つまらないかい?」
「ん……そうでもない、かしら。こうしてお話してるの、楽しいわ」
「それなら、いいじゃないか……不器用な魚でも。溺れながら、ぼくを見上げていればいい」
「お月さま、あなたは溺れるあたしを見下ろすだけなのね。手を触れることも、喰べることもできないのに、それでいいの?」
「いいさ。ぼくの手は爪が鋭すぎて、きみの身体を裂いてしまう。ぼくの口は大きすぎて、空気と一緒にきみを吸い込んでしまう。だから、見下ろすだけで満足なんだよ」
「わたしは不満よ。だって、溺れているのは飽きてしまうんだもの」
「だけど、きみには選びようがない」
「そうね。わたしは溺れるしかできない」
「溺れていなよ。見ているからさ」
「溺れているわ。しかたないから」

 これは、月と魚のおはなし。
 既望月と溺魚の想話。


 窓枠にあごを乗せ、ただ月を眺めていた。
 春海がこの石造りの部屋に囲われて以来、変化のあるものは窓枠から覗く月だけだった――それもまた、不変の周期で干満を繰り返すだけだが。
 ただひとつの窓は、太陽の眠る時間にしか開かれない。陽光は重い石戸に遮られ、月光と星光だけが春海の本繻子のごとき艶やかな肌を撫でる悦予に与かれる。
 見上げる月は真円をわずかに過ぎた、撓んだ円を模っており。見つめているだけで吸い込まれそうになるも、後ろ手に繋ぐ鉄枷が、足首を捕らえる鉄球がそれを許さない。天上へと落ちそうになる身体を、無言で縫い止めるのだ。
 夏樹はいない。
 いつも夜になると現れて、窓を開放する。そのあと居残るのか、また出て行くのかは日によってまちまちだ。夏樹が何者でどんな理由があって自分を監禁しているのか、春海は知らない――否、なにも知らない。自分が何者でいったい何時から囚われているのか、それすらも春海は知らなかった。ただ、おぼろげに父がいて母がいて、そして兄がいたような気がするのだ。
 思いだせない兄の顔が、堕ちてしまおうとする心を繋ぎ止めて放さないのだ。

 泳ぐことも溺れることも、叶わない。
 ただ、月を見ている。



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