『氷魚』

 たとえば、ここにひと欠片の氷があったとする。
 氷はゆっくりと、だが確実に融けていくだろう。やがて液体に姿を変えた氷は、こんどは徐々に蒸発していき、気体となって空気に溶けてしまうだろう。
 だが、氷がなくなったわけではない。姿を変えただけであって、消滅したわけではない。だから、わたしたちが普段なにげなく口にして、日常あたり前に掻き分けているこの空気とは、その意味の根底において氷となにひとつ変わるところがないのだ。
 わたしたちは、氷のなかを泳いでいる。


「なんでしょうか?」
 高橋真奈美の言葉に、担任教師は「まあ、座れ」と、手前の椅子を目で示した。
 腰かけた真奈美に、教師はわざとらしく咳払いをしてから訊ねる。
「高橋、おまえ……おれにいうことがあるんじゃないか?」
「なにをですか?」
「いや、その……なんだ……」
 口ごもる教師を、真奈美は斬り捨てる。
「年配の男性とラブホテルにはいったのか、ってききたいんですか?」
「やっぱりそうなのか?」
 真奈美には「やっぱり」が強調されてきこえる。
「はいってません――っていったら、先生は信じてくれるんですか?」
「そ、それは……信じるよ。先生は高橋の味方だ。だから、正直に話してくれ」
 表情を探るまでもなく、その台詞からしてすでに彼が真奈美のことを信じていないのは明白だ。
「……帰ります」
 立ちあがると、返答を待たずに踵をかえす。教師が手をのばすが、わずかに間に合わず、椅子から転げおちかける。
「高橋、待ちなさい。先生を裏切る気なのか!?」
 教師の言葉に真奈美は、かつり、と足をとめる。背中を向けたまま、口元を震わせる。
「さきに裏切ったのは先生のほうでしょ……」
 その言葉が教師に届いたかどうかをたしかめることなく、真奈美は放課後の生徒指導室をあとにした。

「先生」
 大好きな後姿を見つけて、真奈美は駆け寄った。ばしっ、と背中をたたく。
「おはようございます、先生」
「おう。おはよ、高橋」
 関本はふり向いて挨拶を返した。歩調をおとして、真奈美に合わせる。
「高橋は毎日元気だな」
「え、先生は元気ないんですか。風邪気味とかですか?」
 真奈美が顔を曇らせるのをみて、関本はあわてて手をふる。
「ああ、ちがうちがう。じつはさ……」
 辺りを見回す仕草をすると声をひそめて、「二日酔いなんだ」と苦笑した。
「え……」
 真奈美は絶句して、すぐに破顔する。
「この不良教師め、ふふっ」
「だまっててくれよ」
 ――などと笑いながら、ふたりは校門をくぐるまで並んで歩いた。

 教員用昇降口のまえで、柱に寄りかかっている真奈美。可愛らしくラッピングされた包みを大事そうに抱えている。
「高橋……なにやってるんだ、こんな時間まで」
 横からふいに肩をたたかれて、真奈美はびくっと跳ねる。
「えっ、あ……先生」
 立っていたのは関本だ。真奈美の驚きように目をまるくしている。
「ん……なに持ってるんだ?」
 関本の視線が真奈美の手元に注がれる。
「えと、あの……これ……」
 頬が紅潮していくのを感じながら、真奈美は思いきってリボンのついた包みを差しだす。
「あの、誕生日おめでとうございます!」
 押しつけるように包みを渡すと、だっと走りだす。関本は、わけがわからないといった表情で見送る。それから、押しつけられた包みを見て微笑む。
「ありがと、高橋」
 消えていく背中に、そう呟いた。

 噂が流れだしたのは、夏休みが終わって一週間ほどした頃だ。根も葉もない噂だったそれは、いつのまにか真実の顔をしていた。
 噂がまだ冗談にすぎなかったころ、真奈美は否定しなかった。それは、真奈美にしてみればちょっとした遊びのつもりだった。友達がたまにそういった話題で盛り上がっているのを知っていたから、自分もそういう冗談をいえるのだぞ、というつもりで曖昧な笑みをうかべていたのだ。
 けれど、ホテル街で真奈美をみたという生徒が現れてから、噂は自分が噂であったことを忘れていく。
 それでも、真奈美は否定しなかった。怒っているような泣いているような、曖昧な笑みをうかべるだけだった。

「明日、つき合ってくれないか?」
 そう言われて、真奈美の心臓は破裂しかけた。
「え、つき合う!? わたしが先生と!?」
「うん。プレゼントのお返しを買おうと思ったんだけど……なにを買っていいかわからなくてさ。それで高橋に選んでもらおうと思って」
 関本は照れくさそうに頭をかく。真奈美は関本の言葉をしばらく反芻して、「ああ……」とうなづく。
「つき合うって、そういうことか……」
「なにか用事あった? まあ、土曜日だし……遊ぶ予定があって当然か」
 ひとりで納得する関本に、真奈美はぶんぶんと首を振って、
「あ、ううん。予定なんてないよ。つき合う、先生につき合います」
「ほんと? ありがと、高橋」
 笑いかけられて、真奈美は幸せだった。

「あ、これなんか綺麗じゃないですか?」
「どれどれ……ネックレスか」
 真奈美が手にとったネックレスを、関本が顔を寄せて覗きこむ。
「わたし、このデザイン好きです」
「じゃあ、これにするか……あ、こっちにも似たようなデザインのがあるけど?」
 間近でふり向かれて、真奈美は赤くなった頬を隠すようにネックレスに手をのばす。
「そうですね。こっちの青色のほうが大人っぽいですけど……やっぱりわたしは、このピンクのほうが好きですね」
 最初に手にしたほうのネックレスを見せる。
「じゃあ、これにするか」
 そういって関本が手をのばしたのは、青色のネックレスだった。関本の意図が飲みこめず、真奈美は
「え?」と眉をしかめる。
「高橋で大人っぽいんだったら、あいつにはちょうどいいだろう」
 ネックレスを手にして微笑む関本を、真奈美はぎこちない表情で見る。
「あいつ……」
「同棲してる彼女に、プレゼントのお返しをしないってわけにもいかないしね……あ、ぼくが同棲してるってのは、みんなには内緒だぞ」
 関本は人さし指を唇にあてて笑った。
 真奈美は機械仕掛けの唇を持ちあげるのがやっとだった。

 真奈美が自主退学したその夜遅く、事後処理に翻弄された関本は足を引きずってアパートに帰りつく。
 だれもいない暗い部屋。関本はだまって鍵を開け、だまって明かりをつける。生活臭の薄い部屋には食卓兼仕事机がひとつ。その上には、プレゼント用に包装された縦長の小さな包みがぽつりと載ったまま。
 ネクタイを脱ぎもせず、机のまえに座って包みに目をおとす。あの日ふたりで買った包みの中身は、開けずとも知っている。
 音のしない部屋。うつむいて、ぽつりと呟く。
「じゃあ、どうすればよかったんだよ……」
 初めて女性から贈られたネクタイに、ぽつり、と水が跳ねた。


 たとえば、ここにひと欠片の氷があったとする。
 氷はゆっくりと、だが確実に融けていくだろう。やがて液体に姿を変えた氷は、こんどは徐々に蒸発していき、気体となって空気に溶けてしまうだろう。
 だが、氷がなくなったわけではない。姿を変えただけであって、消滅したわけではない。だから、ぼくたちが普段なにげなく口にして、日常あたり前に掻き分けているこの空気とは、その意味の根底において氷となにひとつ変わるところがないのだ。
 ぼくたちは、氷のなかをもがいている。



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