『バクホーの箒乗り』

 十余年にもおよんだ戦争の傷痕が、新しいコンクリートとアスファルトに隠されはじめて間もない頃――人々はただひたすらに生きていた。
「ホア、そろそろ起きなさい」
 南の都市バクホーの外れの一軒家に、今朝もまたメイの声がする。
「はあい、いま起きる。起きますってば……」
 母メイに叩き起こされて、ホアは寝ぼけ眼で食卓につき、メイが用意していてくれたお茶をすする。朝一番のハーブティでぱっちり目を覚ますと、ようやく皿を運んだりと手伝いをはじめる。
 蒸し暑い初夏の陽気も、朝はまだ幾分か涼しい。ホアは朝食をゆっくりと噛みしめる。
「そうだ、ホア。学校に行くとき、これ持っていって先生に渡してちょうだい」
 メイは食卓の隅においてあった風呂敷包みを指さす。ホアが風呂敷の中身を尋ねる前に、メイはお茶をすすりながら言を継ぐ。
「うちで作ったハーブです、って言って渡してちょうだい――こう暑いと先生もお疲れでしょうしねえ」
「はあい」
 メイが小さな裏庭でつくるハーブはどれも美味しい。母自慢のハーブをたっぷり使ったタマリンドのスープは、ホアの大好物だ。

 ホアたちの学校は、正しくは「私塾」である。
 今年で五十歳になるマーが自宅を開放して、近所の子供たちに読み書きや算数を教えているのだ。
 マーは解放軍の箒乗りとして帝国軍と戦いつづけ、英雄として第一等救国勲章を受勲した人物だ。戦後は南都バクホーの郊外に居を構えて、子供たちを相手に学問を教えて過ごしている。
 現在のマーには、神出鬼没の箒乗りとして帝国軍兵士に恐れられた影もない。ホアたち子どもには「ときどき厳しいけど、いつも優しいマーおじさん」だ。
「マー先生、これ、母さんが食べてくださいって」
「おお、ありがとう。ホアのお母さんがつくる香草は、どれも美味しくて助かってるよ」
 マーは、ホアから風呂敷包みを受け取って、顔いっぱいで笑う。
「じゃあこれは、さっそくお昼ご飯にさせてもらおうか――さあ、ホア。もうみんな待っているよ」
「はあい」
 ホアも他の子どもたちも勉強は好きじゃないけれど、本が読めるようになるのは嬉しいから、みんな読み書きはちゃんと勉強する。それにマーは教え方がとても上手だった。マーが声を出して絵本を読みはじめたり、手袋人形を両手にはめて寸劇をはじめると、子どもたちはいつのまにか新しい言葉や言い回しを覚えているのだ。
 勉強の時間が終わると、つぎは昼食の時間だ。
 今日の昼食は、ホアが持ってきた香草をたっぷり使ったタマリンドのスープだ。タマリンドとは酸味のある豆で、この豆を裏漉しして魚醤ニョクマムで味を調えたスープに香草をたっぷり入れた料理は、南部の人間にとって馴染み深い皿のひとつだ。
 昼食が終わると、午後は色々だ。
 家に帰って家事や畑仕事を手伝う子もいれば、マーに本読みをせがむ子や、勉強熱心な子もいる。そして、箒乗りを教えてとせがむ子も、だ。
 昼食の片づけを終えると、ホアはいつものように、マーに箒乗りを教えてもらおうと頼み込んだ。もうお馴染みになった遣り取りだ。
「ねえ、マーおじさん。おじさんって箒乗りだったんでしょ? ねえ、なんで乗り方教えてくれないの?」
 マーは困った顔で白髪の混じる髪を掻く。
「ホアはそんなに箒乗りがしたいのかい?」
「うん!」
 勢いよく頷いて、ホアはマーの袖を引っ張ってなおも催促する。
「ねえねえ、教えてよ。箒乗り、わたしに教えてよ」
「ああ、分かった分かった。でもその前に――」
「国語ドリルをやれ、っていうんでしょ。分かったよ……でも、今度はちゃんと絶対、教えてもらうんだからね」
「ああ、分かっているよ。ホアが国語ドリルを全部やり終えたら、いくらでも教えてあげる――約束だ」
 ホアが鉛筆片手にさっそく睨めっこをはじめた国語ドリルは、まだまだ空欄だらけだ。マーが約束を履行するまでには、もうしらばくの猶予がありそうだった。

 マーの家には、身寄りのない子供たちが八人、寝泊りしている。南部一番の都市といえど、戦争の傷痕はまだ様々なかたちで残っている。戦争の傷痕は、たとえば破壊されたまま未だに放置された建物や、四肢を失った人々、我が子を失った人々にかぎらない。
 マーは解放軍の兵士として帝国軍や、北部軍の帝国支持派と戦ってきた。帝国軍とそれに対抗する解放軍とのあいだには圧倒的な物量差があったものの、国土の大半を覆う森林を舞台に、解放軍は徹底的な抗戦をつづけた。
 密に生い茂った森の中で、帝国軍の大部隊はマーたち解放軍のゲリラ戦術で確固撃破される的でしかなかった。業を煮やした帝国軍部が飛行絨毯からの爆撃で森ごと焼き払おうとすれば、木々の合間を縫って舞い上がった箒乗りたちに翻弄され、撃墜される――打撃を加えては反撃を食らう前にまた身を隠すという徹底したゲリラ戦術は、十余年にもわたって帝国軍を苦しめた挙句、ついに退けるにまで至ったのだった。
 マーは箒乗りとして戦争を生きのびた者のひとりだ。戦後を迎えるまで、多くの同胞が死ぬのを見てきたし、それと同じくらいの白人を殺してきた。幸いにも五体無事でいまこうして生きているが、老体に染み付いた硝煙と返り血は拭えるはずもない。
 マーが知っている箒乗りの技術は、敵を殺し、仲間を見殺しにするための――戦争のための技術でしかない。
『戦争が終わって生きてた奴は、戦争しないで寝ててもいい時代にすること。いいな』
 それが、マーと死んでいった同胞たちとの約束だった。

「先生、どうしたんですか?」
「――ん?」
 泣きそうなスンの声で、マーはようやく顔を上げた。スンに手伝ってもらって夕飯の準備をしているうちに、いつの間にか物思いに耽ってしまっていたようだった。
 鍋の中でタロイモがぐつぐつに茹だっていた。
「先生、なんだかとても怖い顔してた……ぼく、なにか気に触ること、してしまいましたか?」
 怖いことがあると敬語になるのが、スンの癖だ。スンは、市場の片隅でうずくまっていたのをマーが見つけて、この家に連れてきた少年だった。がりがりに痩せて行き倒れていたスンが、それまでどんな生活をしていたのかマーは知らない。けれども、スンが大人に対して恐怖を覚えていることは確かだった。
 マーにできることは、笑顔を向けることくらいだ。
「ああ、ごめんよ、スン。わたしは考え事をすると、すぐ怖い顔になっちゃうっていけないね。ああ、タロイモにも火が通りすぎだ――あつ!」
 マーは湯に箸をつっこんでタロイモを笊に揚げようとして、手の甲に湯を跳ね上げ、大げさな顔で飛び跳ねた。
「あ――早く水を!」
 スンがあわてて蛇口を捻り、マーの手を冷やす。識字率と上水道普及率の高さが、この国の特徴だ。
「ありがとう、スン。お陰でもう大丈夫――火傷にもならずに済んだみたいだ」
 マーはそう言って、スンの頭をくしゃりと撫でた。スンは戸惑った顔をしてから、ぎこちなく笑顔を浮かべた。マーも一緒に笑ってから、困ったように頬を掻く。
「タロイモのパンケーキ、ちょっとべしゃべしゃしちゃいそうだね。スン、わたしがぼうっとして火傷しそうになったこと、秘密にしておいてくれよ」
「うん、分かった。約束する、約束」
 スンは嬉しそうに――どこか興奮したように、三度つづけて首を縦に振った。
「ああ、約束だ」
 約束ばかり増えていくな――マーはふいと苦笑した。



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