『陽だまりの色』

 その猫が私の部屋に居付くようになって、一年が過ぎた。
 一年前の晩、私が仕事から帰ってくると、そいつは昨日から敷きっぱなしだった布団の上に寝屋を定めて丸くなっていた。きっと朝に開け放したままだった窓から入ってきたのだろう。
 すぐに追い出したやろうかとも思ったが、仕事で炎天下を歩きまわって疲れていた私は、何よりも先に冷たい牛乳を飲みたいと思った。
 私がパックの牛乳を取り出し、冷蔵庫を閉めて振り返ると、そいつはいつの間に起きていたのか、私から数歩離れたところに座っていた。
 ぴんと背筋を伸ばして私をじっと見るそいつは、にゃあと鳴きもしない。
 ――もし、そいつが甘えた声を出して足元に擦り寄ってきていたら、私は躊躇せずに追い出していただろう。だけど、そいつは媚びを売ってきたりはしなかった。尻尾を振りもせずに、ただじっと私を見つめるだけだった。
 私は適当な皿に牛乳を注いで、そいつの前に置いてやった。そいつは礼の一つも言わずに、ぴちゃぴちゃと牛乳を飲み始めた。私もパックに口をつけて、ごくりごくりと喉を鳴らした。
 翌朝から、私は雨の日でも窓の端を開けて家を出るようになった。

 朝、私が目を覚ますと、足元で丸まっていたそいつも起きだして、じっと私を見る。私も黙って皿に牛乳を注いでやる。
 私が出勤するのに合わせて、そいつも何処かへいなくなる。
 夕方、私が帰ってくると、そいつも窓から部屋へ入ってくる。じっと私を見るので、牛乳と煮干しを皿にあけてやる。じっと見てこない日もあるので、そのときは牛乳だけを置いておく。
 夜、私が布団に入ると、そいつも私の足元にやってきて丸くなる。どんなに寒い日でも、けっして布団の中には入ってこない。
 いつの間にか、いなくなっているときもあるので、そんな夜は窓を少しだけ開けて寝る。

 一年の過ぎたある日、私はこの部屋を出ることになった。理由はわからなかったが、そうしなくてはいけないのだそうだ。逆らうこともできたが、逆らう理由もなかった。
 その日は、そいつが牛乳を飲み終え、何処かに出ていった後も、私は一人部屋に残って荷物をまとめにかかった――日が天頂を越える頃には、全て終わってしまったが。
 結局、両手に持てるだけの荷物をまとめ終えると、部屋はすっかり片付いてしまっていた。
 立ち上がって見渡した部屋は、思っていたよりもずっと狭く、少々驚いた。普通、荷物を除けると部屋は広く感じるものなのだが……この一年、すっかり忘れていた、この部屋の狭さをたった今思い出した――そういうことなのかもしれない。
 少しだけ開いた窓から差し込む午後の光が、狭い部屋をますます狭く切り取る。
 ふと思った――そういえば、あいつを昼間に見たこと、なかったな。
 ――そうだ。あいつは陽だまりみたいに淡い黄色をした奴だったが、私は陽だまりの中であいつが丸くなっている姿を、今まで一度も見たことがなかった。
 理由はわからなかったが、私はそれがどうしても気になった。見たかった。陽だまりに佇むあいつを、どうしても見たかった。
 私は両手に荷物を抱えたまま、待った。あいつが来るのを待った。

 窓の奥の日差しは足早に駈けていき、部屋を切り取る光は黄金から赤、やがて蒼、そして黒へと変わっていく。

 ……本当はわかっていた。あいつが太陽の出ているうちにやって来ないことは。
 私は――いや、この部屋は、あいつにとって夜の居場所であって、昼の居場所ではないのだと、わかっていた。
 あいつは誰にも甘えたり媚びたりはしない。痛々しいまでに凛として、誰の足元にも寄りかかったりはしない。鳴き喚いて足元に縋り、私が出て行くのを引き止めたりはしない。きっと、黙って見送ることもないだろう。興味をなくして、どこかに出て行くだけに決まっている。だから、あいつが来たところで、この結末が変わったりはしない――それも、わかっていた。
 だけど、見たかった。陽だまりの中、敷きっぱなしの布団の上で気持ちよさそうに身体を丸めて眠るあいつを、どうしても見たかった。
 あいつを待ちたかった。待っていたかったのだ。

 私は窓を閉めた。そこに映るのは夜の景色ではなく、蛍光灯の白い光に染まった私の顔。
 私は灯りを消して、部屋を出た。
 目に焼き付いているのは、不思議とあいつのことではなく、荷物のなくなった私の部屋の光景だった。あいつと同じ、陽だまり色に染まった部屋だけが、心の奥でひっそりと呼吸していた。


 朝、荷物を抱えた私が、新しい部屋――きっとここも、いつか出ることになるのだろう――のドアを開けると、正面の窓から差し込む光が私の目を射抜いた。私は反射的に目を細める……何だ? 光の中に一点の影が見える……。
 私はいっそう細めた目を凝らす。そして、見開いた。

 開け放された窓から溢れる逆光の中、陽だまり色をしたそいつは、日差しを照り返して輝く畳の上でじっと私を見て――

 気が付くと、私はそいつに向かって駆け出していた。蹴飛ばすように靴を脱ぎ捨てて、光の中の一点に駆け寄っていく。その間、そいつはじっとしたまま、逃げようともせずに佇んでいる。陽だまりに染め抜かれた部屋の中、陽だまり色のそいつがじっと私を見ている。黄金に切り取られた光景の中で、私はそいつを抱き上げようと手を――
 不意に日が翳り、部屋に満ちていた陽だまりは白日の夢だったかのように消えてなくなる。
 私が伸ばした手の先には、真白な毛並みの猫がちょこんと座っていた。
「ナァ」
 白猫は私を見上げて一鳴きすると、喉を鳴らしながら私の手に身を擦り付けてくる。餌をねだっているのだろう。
「ナァ、ナァ」
 ……黙って、ただ黙って私を見つめていたあいつはいない。陽だまり色をしたあいつも、陽だまりの部屋も、もう何処にもない。
 私は泣いた。
 何が悲しいのか、理由はわからなかったが、私は泣いた。それから、買ってきたばかりの牛乳を白猫に出してやった。白猫は鼻を近づけただけで、ぷいとそっぽを向けると、再び私の足に頬を押し当ててきた。
 私は牛乳パックを持ったまま、もう一粒だけ涙を零した。



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