『ガチャガチャ』

 学校の扉というのは普通、二枚の扉が騒々しくがらがら音をさせて行き違う、いわゆる引違いタイプの引戸ですよね。わたしの通学していた、当時すでに築百年を越していた小学校でもそうでした。
 ですが、宿直室の扉だけは、ノブのついた開戸タイプの扉でした。
 校舎が建てられた当時は、宿直室の扉も、一枚の扉がスライド開閉する、いわゆる片引きタイプの引戸でした。しかし、ある事件があってから、宿直室の扉は開戸にとり替えられたのでした。これから、その事件についてお話してみようと思います。
 その前に、宿直というものについて説明しておきましょうか。
 いまの学校では専門の警備員が夜まわりをすることが多いですが、当時は教師が日替わりで学校に泊りこんで夜警に当たるのが普通でした。いまのような凶悪事件もありませんでしたから、それで十分だったわけです。
 さて――その晩、宿直をすることになった若い男性教師は、名前を鈴木といいました。わたしもひとづてにきいた話ですから、これが本名なのか仮名なのかは、わたしも知りません。
 鈴木さんはその夜が初めての宿直で、先輩教師からは「ひと晩泊まればいいだけだ。気負わんでいい」と言われたのだけど、根が真面目な鈴木さんは緊張したまま夜を迎えました。
 ……ですが、緊張していたのは最初の数時間だけで、鈴木さんはじきに退屈になりました。三時間毎に校舎内をぐるっと一周する以外は、とくにすることもありません。まだ日が落ちてすぐの頃に最初の見まわりをして、それからテストの採点も終わってしまうと、もうできることがないのです。
 夕食はカップラーメンだったので作るのも食べるのもすぐに終わってしまったし、宿直室にはテレビもないのです。ラジオはありましたが、鈴木さんはすぐに飽きてしまいました。
「退屈だなあ」
 緊張していた反動か、鈴木さんは畳にごろりと大の字になって呟きました。そしてそのまま、”うとうと”と居眠りを始めてしまいました。
 ガタガタ。
「――!」
 鈴木さんは、はっと飛び起きました。いつのまにか本格的に眠りこんでいたようで、咄嗟に壁掛け時計を見ると、針は十時手前を指していました。
 午後七時に最初の見まわりをして、それから三時間毎に二回目、三回目と見まわる規則になっています。べつに守らなくとも誰も見ていないし、実際、ほとんどの教師が宿直室から一歩もでないで翌朝を迎えていました。ですが、そこはまだ熱意と若さに溢れた生真面目な鈴木さんのこと――慌てて起き上がり、懐中電灯を手にとって見まわりにいこうとしました。
 ガタガタ。
 そこでようやく、鈴木さんは自分の目を覚まさせた音の正体に気がつきました。廊下にでるために引戸を開けようと伸ばしかけた手を止めて、ごくりと唾を飲みました。
 外から誰かが宿直室の引戸を開けようとしていて、だけど錠が掛かっているために開かず、ガタガタと鳴っていたのです。
 そんな馬鹿な!
 鈴木さんは一瞬、頭が真白になりました。七時に見まわりをしたときにもう、校舎には誰ものこっていなかったはずです。それなのに、じゃあ――いま、引戸の向こうで扉を開けようとしているのは誰なんだ?
 ガタガタ。
 引戸は相変わらず、誰かが開けようとしているみたいにガタガタと騒いでいます。開けようとしているみたい、ではなくて、本当に誰かが開けようとしているのです。
 鈴木さんの目はもうはっきりと覚めています。引戸が鳴っているのは夢でも幻覚でもありません。確実に誰かが開けようとしているのです。
「だ、誰ですか? まだ誰か、校舎にのこっていたんですか?」
 鈴木さんは声が震えるのを抑えて、引戸を開けようとする誰かに呼びかけました。しかし、返事はありません。廊下に立つ誰かは無言で引戸をがたがた鳴らすだけです。
 せめて、「鍵を開けてください」と一言だけでも言ってもらえれば、鈴木さんもよっぽど気が楽になったことでしょうが――扉一枚挟んだ向こうに立つ誰かは、飽きもせずに錠の掛かった引戸を開けようとするばかりでした。
 ――あれ、おかしいぞ。
 ガタガタ震える扉の前に立ち尽くしていた鈴木さんは、さらに恐ろしいことに気がついてしまいました。
 その引戸は上方のちょうど大人の胸から上が映る辺りに擦りガラスの窓がついていました。擦りガラスなので相手の顔を見ることはできませんが、背格好を確かめることはできるはずでした。
 しかし、擦りガラスには誰も映っていませんでした。鼓動が恐怖に乱れるのを感じながら、鈴木さんは擦りガラスに向けて懐中電灯を点しました。しかしやはり、なんの影も映りませんでした。
 引戸は相変わらずガタガタ鳴っています。
「ひ、ひぃ――!!」
 今度こそ耐え切れない恐怖に襲われた鈴木さんはその場に尻餅をつくと、そのまま這うように後退りして四畳半の隅に膝を抱えて蹲り、朝まで念仏を唱えて一睡もできずに過ごしました。そのあいだずっと、引戸はガタガタ鳴りつづけていました。
 明方、極度の疲労と緊張で鈴木さんはついに気を失ってしまいました。
「鈴木先生、鈴木先生。いないんですか?」
 引戸をどんどん叩きながら自分の名前を呼んでくる声に、鈴木さんは、はっと目を覚ましました。反射的に時計を確認するともう朝の七時を過ぎていて、カーテン越しの朝日が四畳半を薄明るく照らしていました。
 よかった、助かったんだ。
 鈴木さんは全身から力が抜けて立ち上がるのに苦労するほど安心しました。
「鈴木先生、なにかあったんですか?」
 引戸の向こうからきこえるのは教頭先生の声です。鈴木さんはよろけるようにして引戸のほうに向かいながら返事しました。
「いいえ、なんでもありません。いま開けま――」
 ベキッ。
 なにかが折れるような、嫌な音がしました。と同時に、引戸の開く音と、勢いあまった教頭先生が「おっと」と呻く声がしました。
 嫌な音の正体は、引戸の錠が壊れた音でした。一晩中ガタガタと負荷をかけられたせいで、錠前の留め具が壊れてしまったのです。
 もしも昨晩のうちに壊れていたら――鈴木さんの顔からは、さっと血の気が失せるのでした。
 この後、壊れた錠前を交換しようということになるわけですが、ここで鈴木さんが熱弁を振るって、宿直室の扉を引戸から開戸に替えてもらいました。
 開戸というのは、ようするに一般的なドアのことです。鈴木さんが開き戸に替えてもらいたかったのは、引戸よりもしっかりした鍵を掛けられるからでした。
 引き戸と開き戸でそんなに違うのかは疑問ですが、すくなくとも鈴木さんはそう考えていたようです。
 さて、日々は流れて、また鈴木さんが宿直をする日がやってきました。今度は扉も新しくしてあるし、なにかあっても鍵が壊れる心配はない――そう思うだけで安心でした。
 宿直の夜、午後七時の見まわりを終えてカップ麺を食べたあとに”うとうと”していると、案の定、十時の見まわり直前になって、ドアノブを捻るガチャガチャという音が鳴りだしました。
 跳ね起きた鈴木さんは、きたぞ、と思いました。
「誰かいるんですか?」
 扉の向こうに向かって一度だけそう呼びかけましたが返事はありません。さては以前の幽霊だかお化けだかが懲りもせずにまたでてきたのだな、と鈴木さんは息を飲みました。
 ですが、今度はもう怯えて丸くなったりしません。相手は鍵の掛かった扉を開けることができないとわかっているのですから。
 その夜はもう、鈴木さんは見まわりを諦めて寝てしまうことにしました。
 ガチャガチャという音がずっときこえて煩く、鈴木さんは耳にティッシュを詰めて布団を頭から被って寝ました。
 翌日、鈴木さんは同僚の教師に昨晩のことを話しました。みんな作り話だと思って笑うなか、ドアが新しくなってから宿直当番になったことのある教師が笑いながらこう言いました。
「鈴木先生、その話には矛盾がありますね。ほら、鈴木先生がどうしてもって騒いで新しくしてもらったあの扉――あれは気づきにくいんですけど、ちょっと変わっているんですよ」
 もったいつけて話す彼に、鈴木さんはちょっと眉根を寄せて訊ね返しました。
「変わっているってなにがです?」
「あの扉、外から開けようとしてノブをまわしても、内側のノブはまわらないんですよ。でも鈴木先生は。部屋のなかからノブがまわっているのを見たとおっしゃいましたよね? それでは、部屋のなかから外にでようとしてノブをガチャガチャまわしていたことになります。おかしいでしょう」
 鈴木さんは顔面蒼白にして返事もできませんでした。
 つまり、鈴木さんが初めて宿直をした夜も、昨晩も――姿の見えない”なにか”は部屋のなかにいたのです。そのことに気づいた鈴木さんは二度と宿直をしようとせず、校長先生にまで泣きついて、他の先生から雑用を引き受ける代わりに宿直当番を免除してもらったそうです。

 どうして鈴木さんが宿直の夜にだけドアを開けようとする幽霊が現れたのか、本当のところはもはや調べようがありません。ですが、わたしはこう考えます。
 鈴木さんは当時ただひとり、真面目に校舎の見まわりをしていた先生でした。だから幽霊はきっと教育熱心のあまりに死んでからも成仏できなかった先生で、真面目に見まわりをする鈴木さんの実直さに打たれて、一緒に見まわりをしてやろうではないか、と同行を申出ていたのではないか――と。
「夜の学校をひとりで見まわるのは怖かろう。どれ、わしが一緒についていってやるぞ――ん? なんじゃ、わしは幽霊じゃから鍵が開けられなんだ。さあ、ほら、早く鍵を開けないか。ぼやぼやしておると朝になってしまうぞ」
 鈴木さんに向かってそんなふうに呼びかけながら扉をガタガタ、ガチャガチャ鳴らす老教師の姿を想像してしまうのです。
 仮にわたしの想像どおりだったとしても、鈴木さんにとってはいい迷惑だったことに違いはないのですけれどね。



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