『カナリア』
鳥籠館に客がくる。
篭で飼われた小鳥が、その客を出迎える。
「ようこそいらっしゃいました。私は本日、お客さまのお相手を勤めさせていただきます、カナリアと申します」
深々と頭をさげる小鳥。
まだ年若い――といっても二十代後半なのは確実であり、学生などではない。鳥籠館を訪れる客の中では若いほうだ、という意味――その客は、鷹揚にこたえる。
「ではカナリア。早く部屋へ案内してくれ。疲れているんだ、とても」
「かしこまりました」
ふたりは客室へと向かう。
天井が高く広々とした客室は、控えめだが高価な調度に飾られている。なによりも、真白なシーツの敷かれたベッドが目につく。
客はベッドの縁に腰かける。
「さあカナリア――はやく歌っておくれ」
「かしこまりました」
小鳥は一礼すると客の膝の上にちょこんと横向きに腰かけて、か細い喉を歌声に震わせる。
歌の歌詞は英語でも日本語でもない言葉で、意味はよく分からない。歌声は高く澄んでいて、まるでボヘミアンガラスの杯に注がれた清水のよう。歌詞の意味はわからなくとも、歌声をきいているだけでとても心地好かった。
小鳥は客人の首に両腕をまわして、ささやくような歌声を耳孔へと注ぐ――やわらかく、かすれ声のようにはっきり澄んだ歌声に、若い客人はうっとりと目を閉じている。
やがて、小鳥は歌い終える。
「……ご満足いただけましたか、お客さま」
「ああ、いい歌だった」
「それでは、つぎは私の身体を所望なさいますか?」
「いや、いい。ぼくは不能者だ――いや、ちょっと違う。ぼくは歌にしか欲情しないんだ」
「まあ……」
小鳥は目を丸くする。
「じゃあ、いま、私が歌っているのをきいて――」
客人の足の付根にそっと片手をのばすが、そこはもう何の反応も示していなかった。
「カナリア、さあもっと歌っておくれ」
「……はい」
ちいさく頷いて、小鳥は歌いだす。両手の位置はそのままに、若い客人の耳朶に唇を寄せて、すすり泣くように歌う。今度のは英語の歌で、客にも歌詞の意味が理解できた。
翡翠(かわせみ)の少女が川べりに佇み、朝も夜も、流れつづける川を見つめつづける。
きらきら光る水面を見ているうちに、翡翠は飛び立つ。空へ空へ、高く。
太陽になりたかった翡翠の少女は燃えつけて流れる星になり、夜空を落ちていく。
翡翠の少女が声を殺して泣いている。
差しのべた両手から零れ落ちたものに俯く彼女に、両手に残ったものがささやく。
「あなたの手に掬われた、わたしたちに胸を張って」
太陽になれなかった翡翠は、いつか、きらきらした光になって川を流れていく。
歌詞がわかることと、歌詞の意味がわかることはまったくの別物だ。彼には小鳥のささやく歌がどんな意味の歌だったのか、本当のところ、まったくわからなかった。
ただ、その歌声に酔いしれていた。
小鳥は、客人に触れた片手に熱を感じると、満足そうに口の端を持ち上げて歌いつづける。
――若い客人は、明方まで小鳥を歌わせてから帰っていった。一晩中、歌をきいていただけで、小鳥の腰を抱くことすらしなかった。
若い客人は、いつも予期せぬ時に鳥籠館を訪れた。
三日つづけて姿を見せたかとおもえば、二ヶ月近く現れなかったりした。そして、指名されるのはいつもカナリアだった。
小鳥の知っていた歌はすべてこの客に歌ってきかせてしまっていた。次の彼がやってくるまでに新しい歌を覚えようとおもうのだが、うまく時間がとれない。それに一度、忙しさの合間を縫ってどうにか覚えた歌を歌ってきかせたら、彼は首を横にふってこう言った。
「ぼくはきみの歌をききにきたんだ……歌詞と音程が在るだけのノイズをききにきたんじゃない」
そう言われてから、小鳥は無理して歌を覚えようとしなくなった。乞われるままにいつもの歌を溜息にのせて、ときには思いつくままに口ずさんだ鼻歌で彼の耳朶をくすぐった。
若い客人はいつも決まって、最後には翡翠の歌をききたがった。
「この歌が好きなのですね」
と小鳥が微笑むと、客人は首を傾げる。
「どうだろう――好きなのかもしれないし嫌いなのかもしれない。よくわからないんだ」
「………」
小鳥は、いつものように客人の膝にすわって両手でゆるく抱きついた姿勢のまま、黙ってつづきを待っている。
「翡翠の歌だということはわかる。けれど、ぼくは翡翠を見たことがない。街中を流れる汚された川しか見たことがない。だから、その歌をきいておもいうかべる光景は作り物でしかない――そんな歌を好きだとはおもえない」
「でも、ききたくなる――?」
小鳥が言うと、客人は首を縦にふる。
「ああ、そうだ。なぜだろう――そうか、ぼくはその歌を好きになりたいのかもしれない」
客人は小鳥にふり向く。鼻先がこつん、とぶつかる。
「今度、翡翠を見にいこうとおもう――カナリア、きみも一緒にこないか?」
「お客さま、それはできません」
小鳥は悲しげに微笑んで睫毛を伏せる。
「篭の中の小鳥は、篭の中でしか生きられない――それがルールですから」
「そうだったな、忘れていた。……きみは翡翠を見たことがあるのか?」
「図鑑で見たことはありますが、本物は……」
小鳥は首を横にふる。
「そうか。では、ぼくがひとりで翡翠を見てきて、その話をきみにしよう――かまわないか?」
「はい、もちろん。楽しみにしております」
それ以来、若い客人がこの館を訪れることはなかった。
カナリアと呼ばれた小鳥は三年ほど彼のことを待っていたが、そのうちに忘れてしまった。
ときおり、翡翠の歌を口ずさんでは、「両手から零れ落ちたものもやはり、きらきら光っているのだろうか」とひとり小首を傾げる――若い客が来なくなって変わったことといえば、その程度だった。
篭の小鳥は愛でられるのが生業――それは歌を歌うことだったり優雅に舞ってみせることだったりも含まれるが、それらを望む客はいない。小鳥は黙って、客の欲情を受け入れる。それが、篭の小鳥の生業だから。
カナリアはいつか、歌を忘れていた。歌おうとしてもおもいだせないのではなく、歌うことを忘れていた。
だから、
「カナリア、歌っておくれ」
そう言われたとき、目を丸くすることしかできなかった。
はっとしてそう言った客人の顔を見るが、それはあの若い客人とは違う客。欲情を吐き出した後の余韻にまどろみながら呟いた、暇つぶしを求めるだけの言葉だった。
「………」
小鳥はそしてようやく、自分が歌を忘れていたことに気がつく。歌おうとしても、ただ喉がひゅうひゅうと震えるばかり――そうしているうちに客は眠りへと落ちていて、小鳥はひとり、とりのこされる。
小鳥の両手から零れ落ちたものは、たしかにきらきら光っていた。両手にのこったものもまた、光っていた。けれど小鳥自身の羽は――。
小鳥は、翡翠が太陽になりたかった理由を知った。若い客が戻ってこなかった理由を知った。
「………」
彼がいるのだろう――あるいはいないかもしれない――太陽を探して窓を見上げる。けれど夜空には、崩れ落ちそうに細い月しか見つけられなかった。