『睡眠病 -聖歌と聖餐- 』

 相貌は聖人。微笑みは生まれたての赤子。澄んだ声音は夜明けに唄う小鳥のよう。
 天使――それはまさに、福音と祝福を運びたもう聖なる存在。かりに彼らが人間を食らうものだったとしても、その姿はやはり美しく神々しく、原的な敬意と畏怖を感じずにはいられない存在だった。
 睡眠病患者の肉体を食い破って生れ落ちた天使たちは、みずからを誕生させた胚種たる彼らを骨まできれいに貪りつくすと、やがて朗々と唄いはじめた。
 高く低く、鋭く穏やかに、清らかに艶やかに――東方を見据えて天使たちは唱和する。睡眠病患者の信奉者たちと、彼らを殲滅するべく銃撃していた軍人たちは天使たちの食事を見せつけられて放心していたが、耳朶をなでる歌声に敵も味方もなく聞き惚れた。
 天使は唄いながら微笑む。微笑み、踊る。重量を感じさせないステップで軽やかに舞い、緻密に計算された紋様を描くかのように優美で荘厳な群舞を披露する。
 人間はただ平伏し、この世のものとはおもえない天上の舞踏を目の当たりにしたという眼福に酔いしれた。
 天使は唄う。唇の奥に牙をのぞかせて微笑む。流麗にひらめく腕のさきには、鋭く光る捕食者の爪――その爪が閃き、信奉者のひとりが紅い噴水を迸らせた。そのときまで、天使たちが踊りながらすぐ傍まで近づいていたことに、だれも気がつかなかった。
 首の血管を切り裂かれて血を噴き上げた男が倒れふす。男の近くにいたものたちはようやく酩酊から冷め、恐慌を起こす。逃げようとするのだが、周りの人間は天使の舞に見惚れて動こうとしない。そうしているうちに背中から内臓を刺されて絶命し、倒れる。そこでようやく、喀血を浴びた女が我にもどって悲鳴を上げる。
 紙に落ちた水滴が滲むように、恐慌が伝播する。血臭と阿鼻叫喚の渦巻くなか、天使たちは喜びの歌を唄いながら優雅に舞った。腕のひと振るいが、紅いアーチをいくつも架ける。聖母のごとき抱擁と口付けが、骨の砕ける音と、首の半分を齧りとられて痙攣する低音の伴奏をかき鳴らす――信奉者たちは抵抗することもできずに殺されていった。
 信奉者たちを包囲する位置に布陣していた軍人たちは、天使の集団が射程距離にはいる前に戦闘態勢を整えていた。無数の銃口が殺戮の宴をとり囲み、司令官の号令が下される瞬間を待っている。
 ――天使の歌の曲調がかわった。
 信奉者のあらかたを殺しつくした天使たちは、その美しい牙と爪を軍人たちには向けず、歌声を強くしたのだった。
 それまでの清浄で荘厳優美だった歌声から一転、伸びやかな低音と後乗りのリズムを主体とした歌にかわる。背中に羽を持っているような軽やかな舞から、大地の鎖を引き千切るような雄々しいステップに切り替わる。計算された群舞は終わり、いくつもの胎動がぶつかりあうような演舞が始まった。
 戸惑う軍人たちの構える無感情な銃口に見つめられて、天使たちは高らかに吼えるように唄った。すると、地上から天へと突き抜けるような歌声に応えて、湯気を立てる死体たちが起き上がった。欠損した四肢や傾いた首をそのままに、死体たちは聖者の微笑を湛えて歌声を重ねた。
 司令官は、これ以上静止していても敵が増えるだけと判断し、軍全体に攻撃命令を下した。命令を受けた軍人たちが攻撃を開始する。後方から長射程兵器が爆撃を放ち、機関銃を携えた歩兵が殺到する。砲撃の煙が立ち込めるなかへと機関銃の火線が走る。銃撃が当たっているかいないかなど関係なく、ひたすらに撃ちつくす。
 そう長くない時間で、司令官は待機命令を下す。反撃もなく鎮圧できたと、だれもがおもった。
 はたして、煙が晴れた爆撃地点には、天使の残骸も動きだした死体の破片も落ちてはいなかった。消し炭になって吹き飛んだのではない――天使も死体も、無傷だった。人間の攻撃など意に介することなく、唄い踊っていた。
 それからさきは、詳細な描写がはばかられるほどの凄惨さだった。天使も死体も、極上の微笑で踊り狂った。爪や牙が血の旋風を巻き上げる。軍人たちも始めのうちは応戦していたが、人間ならば掠っただけで弾け飛ぶような銃撃も彼らには無力だった。物理法則だとか因果関係だとかいった地上を支配する法則も、彼ら天使とその従属には手をだせないかのようだった。
 やがて軍人たちは自分たちが軍人であることを忘れた。死を恐れて絶叫し、機関銃を乱射して同士討ちを始める。恐慌をきたした軍隊ほど無力で無様なものはない――そもそもが短銃やナイフしか持たないような睡眠病患者とその信奉者を殺すことしかしてこなかった軍隊だ。殺そうとする相手から抵抗されることに慣れていなくて、組織だって撤退するという考えを夢にも思いつかずに泣きじゃくりながら死んでいく様は、いっそ滑稽で清々しくさえあった。
 かくして、夢喰いと呼ばれた睡眠病患者の掃討作戦は終わった。生き延びたものの人数は、当初編成された人員の一割にも満たなかった。のこる九割以上は天使や動く死体に殺害されて、やはり動く死体となって天使に付き従った。生き延びたものたちは口々に言った。「死んだやつらは本当に幸せそうな顔で起き上がってきやがったんだ。まるで――天使に生まれかわったみたいに」と。
 これ以降、天使による侵攻が始まることとなる。人間が三千年以上もかけて築き上げてきた叡智の粋である大量殺戮兵器も、天使に傷ひとつ負わせることはできなかった。これからの十四年間、人間は抵抗すらできずに生活領域を追われていく。天使に殺された人間は、動く死体――天使となって人間を殺す側になり、昨日までの友人を噛み殺し、家族を切り刻んだ。この急激な世界情勢の変容に、当然ながら政治体制も変化し、人類は急速にその版図と繁栄を侵された。
 最初の晩餐から十四年――それだけの歳月を経てようやく、人間は天使への対抗手段を見いだすことになる。



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