『飛縁魔』

 手首を噛む。
 偲の静脈を噛み破り、黒ずんだ血を啜る。
 ごくり――喉が唸る。とろり錆びた後味を残し、渇きを癒す。
「美味いか?」
 一心不乱に啜っていた芙美子は、偲の声に顔を上げる。濡れた瞳に、見下ろす偲が映る。
「美味しい。偲の、美味しいよぉ」
 べたり血塗れた唇をほころばせ、紅く咲いた舌先がちろりとのぞく。舌先は滴る蜜を求めて手首を這いずり、水音を糸引かせる。芙美子の鋭い歯が離れたそばから傷口はふさがっていき、やがて血も止まる。
「もっと……もっと欲しいよ、偲ぅ」
 再び噛みつこうと唇を開くも、偲はさっと手を引いてしまう。追いすがろにも、四肢を鉄鎖で縫い止められていれば、それは叶わず。どさり石畳の床へと突っ伏す。
「あ……もっとぉ」
 うつ伏せの眼前にある偲の靴へと、頬で這う。だが足りず、紅く濡れた舌を伸ばすも、まだ届かず。
「偲、おねがいよ……なんでもする、からぁ」
 込み上がる衝動に瞳を潤ませ、足許から上目遣いに訴える。紅を刷いた淫靡な唇は薄開きに。ちらつく舌は唾液と血に濡れ、それでも渇き。通った鼻筋、細い頤。深紅に映える白い肌。しとり流れる烏羽玉の髪。
「――だめだ」
 魅入られそうな己を断ち切り、偲は言い捨てる。
「おねがい、あと一滴……」
 拘束された四肢を切なげにくねらせ、舌を伸ばして一心に懇願する。
「……だめだ!」
 許してしまいそうな己に怒号を浴びせれば、乾ききらなかった血が一滴、石畳に落ちて跳ねる。
「ぁ、あっ」
 偲の足許に滴ったそれに、芙美子はすぐさま舐りだす。ぴちゃぴちゃ唾液を擦りこませては石畳から血を浮かせ、窄めた唇を宛がってはずちゅり啜りあげ。瞳は淫蕩に濡れそぼり、床を撫でる髪はさらさらと無音を奏で。偲は眼下の痴態に見入り、吐息を熱く濡らし。幾分か失われた血は、ひとつところへと流れこ――
「――やめろ!」
 頬を蹴り飛ばされた芙美子が、だが鎖に引かれて床に身を打ちつける。
「あ、ぁ、いっぱい……」
 頬を伝って落ちる血に啜りつく、その姿はどこまでも艶めかしく禍々しく。傷はすでにふさがって、床を舐めつくして頬に舌を伸ばすも、届くはずもなく。手を伸ばそうにも、鎖が邪魔をし。
「もっと……舐めたいよ、もっとぉ……」
 いやいやと首を振り、乱れ髪が従って。ほろほろと泣き濡れた視線の先で、偲はすでに去っている。
 地下にはただ、芙美子の嗚咽と鎖だけが置き去りにされ。



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