『トマト&オニオン・サラダ 胡麻風味』

「ごはん作りにきたよぉ」
「……は?」
 ぼくはかなりの間の抜けた顔をしていたと思う。
「だって先生、店屋物ばかりで家庭の味が恋しいっていったでしょ? だから、作りにきたの」
「いや、それは上月先生にいったのであって……って、どうやって住所を?」
「そんなの、名簿見りゃすぐにわかるよぉ」
 ああ、そっか――と納得している場合じゃない。奈美は、玄関を押し開けたままのぼくの脇をするりと抜けて靴を脱いでしまった。
「おじゃましまぁす……へぇ、案外きれいにしてるんですねぇ。キッチンは……うわっ!」
 大げさな声に振り返れば、流し台にはカップ麺の容器と缶詰の空き缶と汚れた食器が山と重なっている。
「独り暮らしなんて、どこもそんなもんだ」
「それにしたって……梅雨時にこんなにしてたら、カビ生えてきちゃうよ。しょうがないなぁ」
 奈美はセミロングの髪をアップに結い上げると、洗剤とスポンジを探し出す。両手でぱんと頬を叩くと、流し台を陣取る食器とリサイクル予備団の連合軍に勝負を挑みかかった。
「片付けてくれるんなら……」
 まあ、いいか――と妥協してしまい、ぼくは玄関に立ったままで、キッチンに立つ奈美の後姿をぼぉっと眺める。
「なんか手伝おうか?」
「ううん、座っててぇ。先生が来たって邪魔なだけだもん」
 ……まあ、そうだろうけどさ。大人しく従って、ぼくはリビングのクッションに腰掛ける。
「あたし、けっこう料理上手いんだよ。ほら、家って母子家庭なわけでしょ。だから、あたしが料理洗濯をやって、母さんが掃除ゴミ出しって分担してるのよ。こう見えても、家庭的なんだから」
 奈美はおしゃべりをしながらも、てきぱきと手を動かして流し台を占拠する一団を見る間に掃討していく。いっそ丸ごとゴミ袋に突っ込もうかと思っていた汚れ物の山はあっというまに片付けられ、プラスチック用のゴミ袋と食器棚とに整頓されてしまった。在りし日の姿を取戻したキッチンは、もうすっかり奈美に懐いてしまったようだ。
「ええと、塩と胡椒と……お酢に醤油に……うん、調味料はちゃんとあるじゃない」
 ぼく自身、もうどこにしまったのかも忘れていた調味料たちを召集すると、奈美は買物袋から材料を笊に取りだして洗いはじめる。まな板と包丁がトントントンと小気味良いリズムを刻む。レタスの葉がザクザクッと千切られる。
「はい、とりあえずサラダから食べてて」
 大きめのガラスの器に、食べやすい大きさに千切られたレタスが盛られ、櫛切りのトマトとお酢にさらした横薄切りの玉葱が彩りを添えている。レタスの緑とトマトの赤、透明な玉葱。その上にかけられた胡麻だれが、色合いを引き締める。
「ドレッシングは家から持って来ちゃったんだけどね。買ったんじゃなくって、あたしが作ったんだよ」
 すり鉢で胡麻をすって――と、擂粉木をする仕草をしてみせる。
「……すごいね」
「そう、すごい大変なんだから。か弱い女性のする仕事じゃないわね、あれは」
 サラダ眺めて感心するしかできないぼくに、奈美は笑って答える。
 ふいと笑みを収めて、
「だから……」
 一瞬の間。

「だから、これからはよろしくね……お父さん」

 ぼくが視線を上げたとき、奈美はぱたぱたとキッチンに戻っていくところだった。だから、その表情は窺えなかった。
 だけど、あわてて確かめる必要はない。
 ぼくと上月先生と、その一人娘との生活はこれから始まるのだから。



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