『わたしの青い空』

 ずっと、深い水底にいるような気分だった。
 青く透き通った水にゆらゆら髪をなびかせて、丸かったりひしゃげたりする月を見上げている。わたしの口から零れる気泡は、わたしを残して空へと逃げていく。
 からっぽになった肺を、冷たいけど懐かしい水が満たす。苦しむべきかな、と思ったけれど苦しくないので、わたしは微笑むことにする。
 ああ、月がきれい……暗く深い海底へ落ちていってるはずなのに、水面にきらきら揺れる月はずっと消えないでいてくれる。
 ――身体の感覚がなくなってきた。指先を動かそうとしても、まるで手足がなくなったみたいに何も感じない。視線を向けて確認するのも億劫で、わたしは感覚の喪失に身を任せることにする。それは意外にも心地よいもので、飛び降りる寸前まで胸のうちにあったはずの悲しみだとか憎しみだとかも身体と一緒に消えうせていくようだった。
 もう水は冷たくもない。ただ、懐かしさだけが全身を満たす。澄み切った海水の満ちた肺は、もう肉体に酸素を送るのをやめている。ほどなく、この意識も消滅していくのだろう。
 ……やっぱり、苦しみもがくべきかしら?
 そう思いなおしてみるが、本当に苦しくのないのだから、そんな演技をしたところで無意味だろう。……いまさら苦しんだところで、あのひとの心を射止めることができるわけでもないのだし。最後くらい、楽にしていたいわ。
 ……思いかえせば、わたし、無理してたんだな。
 あのひとが欲しくて、ほかに何も要らなくて、それで大事なもの全部を捨てて――水のなかから見上げて恋焦がれているだけじゃ満足できなくて。あのひとの隣に立って、あのひとと同じ空気を呼吸したかった。けれど、あのひとに近づくほど、わたしは息苦しくて辛くって……あのひとの目がわたしじゃない誰かを見ているんだと思うと、真っ暗な水底に落とされたみたいに重くて悲しくて……。
 なんで気づかなかったんだろう、わたし。
 わたしの空は、懐かしい空気はずっと、ここにあったのに――もう、あの頃に戻ることもできないのね。
 ああ、もう終わりみたい。なんだか、とても眠いわ。このまま、わたし、泡になるのね。泡になって、懐かしい海から追い出されてしまうのね。
 さよなら、わたしの青い空。



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