『気懸かり』
「――あ」
立ち止まったわたしに、「なんだい?」と夫がふり向く。
「ううん、なんでもないの」
微笑して歩きだせば、夫も「そう」と気にすることなく、隣に並んで歩きだした。
進むにつれて密度を増していく木々が陽光を遮り、下草を踏み分ける足音と息遣いが生い茂った枝葉に吸収される。わたしは意図的に歩調を緩め、夫を先に歩かせる。そうして、木の根に足を取られるふりをしては、凭れかかった幹にサインペンで印をつけていった。
車を降りてから十分も歩いた頃には、わたしと夫は現実から隔絶された天然の密室に立っていた。
「なあ……そろそろ、いいかな?」
夫の問いにわたしは神妙な面持ちで頷き、ポーチからカプセル剤を二粒取りだす。わたしと夫、それぞれ一粒ずつ。飲めば五分ほどで睡魔が襲ってきて、そのまま目覚めなくともよいという現代の免罪符だ。
カプセルを夫に手渡す。夫がいっそ穏やかな表情でそれを飲み込むのを見ながら、わたしもカプセルを口に含む。だが飲み込まずに舌の裏へと押しやり、喉を鳴らして飲んだふりをする――夫は水を飲むべくペットボトルを傾けていて、わたしの行動には気がつかない。
「はい、水」
「ええ……」
渡されたペットボトルを受け取り、ぎこちない笑みを返す。
カプセルを飲んでしまわないように少量だけ飲んで、大げさに喉を唸らせる。カプセルが流れだしそうになって少しだけ慌てたが、咽たふりをして誤魔化した。
「ああ……なんだか、眠くなってきた」
ほどなく、とろんと瞼を落として気だるげに横になる夫。
「わたしも眠くなってきたわ」
むしろ気懸かりで走りだしたいくらいなのだが、欠伸のまねで内心を隠す。
夫の隣に寝転がってその顔を窺がうと、もうすでに昏睡していた。薬は思った以上に効きがいい。わたしは慌ててカプセルを吐きだし、ティッシュに包んでポーチにしまう。あとでまた飲むのだから、汚したくない。
「あなた、ちょっと待っててね」
ほとんど呼吸していない夫にささやくと、ペンの印を頼りに、乗り捨ててきた車へと取って返す。――ああ、この印もベンジンかなにかで拭き取っておかなくては。警察に誤解されるかもしれないし、なにより格好が悪い。
「尻拭いはいつも、わたしなんだから」
愚痴をこぼしながら、わたしは車を発進させて自宅へと急いだ。
出掛けにガスを止めてきたかが、気懸かりでならないのだ。