『ネコと魔法とコーヒーのそら』

「コーヒー、ブラックでよかったよな?」
「うん」
 僕はコーヒーを注いだマグカップを二つ持って、居間にいる香里のところへ戻る。
「で、なに?」
 マグカップを手渡しながら、何気なく聞いてみた。
「あのね、先生……」
 香里はたどたどしく、こんな夜遅くに訪ねてきたわけを話しはじめた。

「ええと……それで、僕にどうしろと?」
 僕はそう言うしかなかった。話を要約すると、飼っている猫が逃げ出してしまい、香里はとても悲いのだそうだ。しかし、それを僕に言われても……。
「それであのね、先生に出してほしいの、ネコを」
「はぁ?」
 僕の口調に、香里は怯えた子猫のような顔をする。
「ああ、香里を責めてるんじゃないよ。猫を出してっていうのは、どういう意味かなって」
「あのね、先生が魔法使いだから」
「はあ!?」
 またも怯えさせてしまった。だが、僕が魔法使いとは……?
「先生、ずっと前に魔法を見せてくれたから……魔法でネコを出してほしいの」
「……あのさ、どんな魔法を見せたっけ?」
 僕には全然覚えがない。けれど、そう言ったら香里が泣くのはわかっていたから、それとなく聞いてみる。
「黒いボーシからハトとかウサギとか出してくれたよ。だから、今度はネコを出してください。おねがいします」
 香里はぺこりと頭をさげて、上目づかいで僕を見る。
「香里、それはただの手品で魔法じゃないんだ。だから、香里の猫は出せないんだよ」――とは言えなかった。
「おねがいします」
 香里はもう一度、頭をさげる。僕の頭は「断れ」としきりに促すのだが、唇は遂に、
「うん、わかったよ」
 と音を紡いだ。「馬鹿、どうすんだよ!」と言う頭を無視して、唇は上下しつづける。
「でも、魔法を使うには準備が要るから、今すぐには無理なんだ。明日、猫を出してあげるから、今夜はもう帰りなさい」
 僕はそう微笑んだ。
 本当は送っていきたいのだが、「魔法の準備」がある手前、そうもいかない。僕は香里の保護者に、ここまで迎えに来てもらうよう電話した。
「香里、今迎えが来るから、それまでここで待ってなさい」
「うん!」 
 香里はいつものように元気よく答えて、それから――

「……ねえ、先生」
「うん?」
「先生も悲しくなったら、香里のこと、ボーシから出してもいいよ」

 僕は香里の身体に触れるぎりぎり手前で、抱きしめる真似をする。
 マグカップに満ちた芳ばしい夜空が、今だけの二人をそっと、月明かりから隠してくれた。



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