『いろはにほへと』

「いろはにほへとちりぬるを」
 唄うように喋りだす愛子に、香奈は面食らった顔をする。
「――は?」
「香奈さあ、この先になんてつづくか知ってる?」
「知らないわよ、そんなの。ってか、“いろはにほへと”までしか知らないって。ちりぬるを、って何語よ?」
 やっぱアイの感性って意味不明ねえ、と呆れ顔。
 愛子は愛想笑いを浮かべるでもなく、ふたたび喋りだす。
「いろはにほへと、ちりぬるを。わかよたれそ、つねならむ。うゐのおくやま、けふこえて。あさきゆめみし、ゑひもせすん」
「……やっぱ、わかんねえ。それ、本気で日本語?」
 大仰に肩をすくめる香奈。愛子はノートにボールペンを走らせ、書いた言葉を読みあげる。
「色は匂へど、散りぬるを。我が世誰そ、常ならむ。有為の奥山、今日越えて。浅き夢見し、酔ひもせず」
「まあ、意味のわかるようなわかんないような……漢字で見ると“ああ、わかるかも”って気はするね」
 わかんないけどさ、と笑う。
 香奈の返答を聞いているのかいないのか、愛子の言葉は、他人に聞かせる独り言のよう。
 ノートに書きつけながら、唄う。
「あめつちほしそら、やまかはみねたに、くもきりむろこけ、ひといぬうへすゑ、ゆわさるおふせよ、えのえをなれゐて」
 天地星空、山川峰谷、 雲霧室苔、 人犬上末、 硫黄猿生ふせよ、 榎(あ行)の枝(や行)を馴れ居て。
「とりなくこゑす、ゆめさませ。みよあけわたる、ひんがしを。そらいろはえて、おきつべに。ほふねむれゐぬ もやのうち」
 鳥啼く声す、夢覚せ。見よ明け渡る、東を。空色栄えて、沖つ辺に 。帆船群れ居ぬ、靄の中。
「をとめはなつむ、のへみえて。われまちゐたる、ゆふかせよ。うくひすきけん、おほそらに。ねいろもやさし、こゑありぬ」
 乙女花摘む、野辺見えて。我待ち居たる、夕風よ。鴬来けん、大空に。音色も優し、声ありぬ。
 ――書き連ねられていく、五十に満たない記号の羅列。感情とか風景とか思想とかを表現する道具は、たったこれだけの記号のみ。
 それはもう、“すき”とか“きらい”とか“ごめん”とか“ありがと”とか、たった一言の言葉がすごいとおもえる瞬間。
 香奈は感歎の吐息。
「すごっ……こんなにいっぱいあるんだ。なんていうか、言葉って――」
 香奈と、ノートから顔をあげた愛子の目が合う。同時に口をひらく。
「すごいねえ」
「意味不明ねえ」
 愛子はころころと笑った。



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