『彼女を待ちながら』

 喫茶店でワープロソフトを立ち上げたモバイルに向かってタイプしては削除してをくり返していたときのことだ。
 その喫茶店にはカウンター席があった。雨が降っていたせいか客足は少なく、カウンター席には誰も座っていなかった。
 そこに息を切らして飛び込んできた男性客があった。
「よかった、間にあった」
 店内に時計はないからだろうか――男は腕時計で時間を確認しながら、ほっとした顔でカウンターのスツールに腰を降ろした。
 見るとはなしに見えた男の奇妙な仕草に興味を誘われて目で追っていたぼくは、おや、と小首を傾げた。
 なぜなら、男が座ったのはカウンターの奥から二番目のスツールだったからだ。ぼくが誰もいないカウンターを目の前にしたら、真ん中から左右どちらかの端に座っていただろう。そんな些細なことだけど、煮詰まっていたこともあって何となくこの男のことを考えていた。
 そうか、男はさっき「間にあった」と言った。つまり、誰かとこの店で落ちあう約束をしていたのだ。ひとつ空けてある最奥のスツールはきっと、そのうちやってくるはずの待ち人のために予約しておくつもりだったのだろう。普通、混んでもいない店内で、わざわざ見ず知らずの他人と壁に挟まれる席に座ろうとする客はいないだろうから。
 ぼくは雨の中をとぼとぼ歩いて帰る気にもならず、どうせならこの男の待っている相手がどんな女性なのかを確かめてから帰ることにしようと思った。
 ところが、待ち人は一向に現れなかった。もうかれこれ三時間は待っている。ぼくはいい加減、苛立っていた。冷えきったコーヒーが不味くて眉間に皺が寄る。
 まったく関係ない傍観者のぼくが苛立っているというのに、この男はじつに落ち着き払ったものだった。待てど暮らせどやってこない彼女を待ちながら、じつに寛いだ雰囲気でコーヒーをちびちび啜っている。しかもなんと、ぼくがこの三時間でじつに二十回は携帯電話で時刻を確認したというのに、この男は一度も時計に目を落とさなかったのだ。
 結局、ぼくとこの男は日が落ちて閉店になるまで喫茶店に居座りつづけた。待ち人はついにこなかったというのに、男は穏やかな顔で店をでていった。
 男の態度がまったく腑に落ちなくて首を傾げていたぼくの耳に、マスターの溜息混じりに呟いた言葉がきこえてきた。
「彼も毎年欠かさず、ご苦労なことだ。相手がこないとわかっていないのかね」
 その呟きで、ぼくは唐突にすべてを理解した。
 男の待っている女性はもうこの世にはいないのだ。何年か前、あの男と女性はこの喫茶店で待ちあわせをした。ところが女性はついに姿を現さなかった。なぜなら、ここにくる途中で事故に遭って亡くなったからだ。
 あるいは、男が遅刻したために怒って店をでたところで事故に遭ったのかもしれない。待ちあわせに間にあったことをとても安堵していたから、きっとそうだ。
 謎が氷解して頬が笑っているぼくの耳に、マスターのつづけて呟いた言葉が届いた。
「彼女はもう、昔つきあっていた遅刻ばかりの男のことなんて忘れているというのに――毎年欠かさずに墓から這いだしてきて、ご苦労なことだ」
 ぼくはようやく、どうして男があんな奇妙な仕草を――文字盤の壊れた腕時計で時刻を確認したのかを、理解した。

 生前の彼はどうやら、よく遅刻するくせにいつも時計を気にして急いでいるような男だったらしい。



戻る
inserted by FC2 system